第三章 忠孝の道理 : 三 無条件に服従し、代価を要求しない真の孝子 :

 おじいさんがつばを吐こうと、おばあさんがつばを吐こうと、また母が気に掛けず、兄弟がしないふりをしたとしても、おじいさんのことを思い、おばあさんのことを思い、家庭全体のことを思って忘れてしまう人になってこそ、歴代に残り得る孝子の班列に入っていくのです。
 「私は孝子だ。孝子になるためにこのようにしている」。それは偽りの孝子です。「ため」に生きて忘れてしまうことのできる人が、孝子の班列に入っていくのです。
 どのような人が忠臣でしょうか。すべての閣僚の中で、自分が王を愛するにおいて、餅を作り、何でもさしあげ、王に侍る臣下や、王妃に侍る次女がみな責任を果たすことができない場合は、それを見てじっとしているのではなく、それに対して説教しながら、自分がそれ以上にして、その環境がそのようになるように教育し、それを忘れてしまうのです。そのようにして「もういい」と言うのではなく、「もっと良くしなければならない」と言わなければなりません。
 なぜでしょうか。大韓民国よりも大きい国の王がいるのであり、天下には天子がいるのであり、天国の王子がいるので、大韓民国という一分野の代表にしかならない忠臣では、自らの欲求を満たすことはできないのです。

 父母の前に孝行する人は、孝行するその天の心が、動脈に行ったのちに静脈に回ってくる血の流れのように動くのです。家庭の一番末端に立ったとすれば、天理の愛の力が動脈側に行ったのちに静脈に回ってくるのです。見えませんが、自然に動くのです。
 静脈の血は、自分で入っていきますか、押されて入っていきますか。押されて入っていくのです。それは、福を受けようとしなくても福を受けるということです。動かないようにしても、大きな心臓によって次第に回っていくのと同じです。福を受けようとしなくても福が訪ねてくるようになっているのです。
 ですから、一生懸命に孝行しなければなりません。それが統一教会の教育です。孝行しなければなりません。孝行する父母がいなければ、国のために尽くしなさい。国が危険な時に、孝行しなければならない父母を残し、父母の反対を受けてでもこっそりと荷物をまとめて一線の将兵として出ていって死んだとすれば、その人は、孝の道理の完成体になることができるのであり、忠の因縁の立場に入っていくことができるのです。

 私たち人間を見れば、困難に直面した時、大概自分の悲しみでいっぱいになります。そのようなことがよくあります。しかし、忠臣はそのようにすることができません。孝子もそのようにしてはいけません。自分の子供が死に、自分の妻が死んだからといって、その子供をつかんで泣いたり、妻をつかんで泣いたりしてはいけません。
 本当の指導者は、そのようにすることができないのであり、真の忠臣ならば、自らの事情を見せたりはしません。自らの心の奥深くにしみ込ませるだけであって、表に出して泣くことはできないのです。
 国王のためにそのような一時をもつことはできませんでしたが、父母以上の心をもって、善の立場に立って、国王よりも悲しい立場に立てば、天がなすべきことを教えてくれるのです。
 そして、孝子、孝女の立場で考えるとき、私たちは、自分が悲しくても、自分の悲しみだけを中心として悲しんではいけません。また、悔しいことがあっても、その恨みを晴らそうとしてはいけません。

 良いことよりも、嫌なことにもっとOKすることができてこそ孝子です。自分の一生の貴重な愛を犠牲にしながら父母に孝行しようとする人は、天上世界のどこに行こうと、四方に十二真珠門があるとすれば、そこでふさがっている門はありません。完全に開くのです。
 興進が霊界に行く時、イエス様はオールド・キリスト(Old Christ:年を取ったキリスト)であり、興進はニュー・キリスト(New Christ:新しいキリスト)だと決定して天上世界に送ったところ、そのとおりになったのです。

 イエス様を愛することができなかった神様の恨を解くためには、一つの国の代表者として、おじいさんとおばあさんを愛しなさいというのです。私たち統一教会は、そのようにしなければなりません。
 おじいさんとおばあさんを愛するにおいては、国のおじいさんとおばあさんが愛することができず、教会のおじいさんとおばあさんが愛することができず、家庭のおじいさんとおばあさんが愛することができなかったものを愛さなければなりません。
 このような三段階の内容を代表した、忠孝の道理を備えた真の兄弟の因縁をもって愛さなければなりません。

 孝行する父母がいるとすれば、その父母は、自分よりも孝行する息子を願うでしょう。そのようになってこそ、おじいさんが死ぬ時に目を閉じて死ぬことができるのであり、父が死ぬ時に目を閉じて死ぬことができるのではないかというのです。息子を自分よりも苦労させることができる心情は、息子を愛しているということです。
 それは当然の考えです。そのようにして、自分と共に苦労してこられた神様を慰労してさしあげなければなりません。このような息子、娘が必要であり、そのような後継者が必要なので、死んでも忘れることができない孝行をするように教育するのであり、私よりももっと苦労させるのです。
 先生は、自分に対してはけちです。自分のためには、お金を使うことを知らない人です。おなかがすいたからといって、食堂に入っていって一人で御飯を食べる、そのような人ではありません。お母様に対しても、食べたり着たりする物まで干渉する人です。

 孝子をもった父母は、その孝子に対することができる父母であり、愛する孝子のための父母であって、そこには第三者が関与することはできません。
 それゆえに、天は、真の孝子をつくるために、サタンと人間がどのようなことをしたとしても、タッチし得ない最後の道を中心として深い因縁を結ぶために、愛する子供を死の場に立てながらも知らないふりをされるのです。
 それが、不孝者になった人間に再び孝行の道理を立てさせるための天の心であり、孝子を立てるための天の指導方法ではないかというのです。それは、言うまでもないことです。

 孝子をもった父母よりも、その父母の前における孝子のほうが、より心配が多いということを知らなければなりません。孝子、孝女のほうが、父母よりも多くの心配をしなければなりません。
 孝子、孝女になるためには、父母よりも多くの心配をもたなければならず、孝子、孝女になるためには、その父母よりも各方面に多くの心配をしなければなりません。

 イエス様は、神様の前で僕の僕となり、十字架を背負いながら死んでいきました。義人とは、国のために僕の僕のような悲惨な立場で死ぬ人のことをいいます。
 自分が死ぬにしても、国のために死ぬという人が愛国者です。僕の僕の立場でも、感謝して父母のために生きようという時、その人には孝子という名称がつきます。これが、人間世界の道徳の骨子であり、核心だということを知らなければなりません。
 神様のためにより公的に僕になることが、より義人になることのできる道であり、国のために、僕よりもっと深刻な僕になることが忠臣になることのできる道であり、父母のために、より僕となった立場で犠牲になっていくことが孝子の道だということも、ここから発見することができます。

 この地上の復帰摂理に対してこられた神様の前で、「神様の真の孝子」と命名できるようにするためには、また息子や忠臣として認めることができるようにするためには、どのような人でなければならないでしょうか。アメリカで一番裕福な人でしょうか。飛行機に乗ってビラをまいて回りながら、「さあ、イエス様を信じなさい!」と言う、このような人々でしょうか。飛行機に乗ってビラをさーっとまいて、「信じるならば信じ、信じないならば信じないようにしなさい」と言う、そのような人々でしょうか。
 そのような人々と、一枚を与える時も、その人をつかんでぶるぶる震えて涙を流すほどの精誠を尽くして与える人とでは、どちらの人が神様の前に近いと思いますか。

 結論的に、孝子とは特別な者ではありません。父母を絶対信仰し、絶対愛と絶対服従するのが孝子です。
 国王を中心として、国の民を中心として、絶対的に国王を信じ、絶対的に民を信じ、絶対的に愛し、絶対的に自分を投入するところからのみ忠臣が出てくるのです。