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第三章 忠孝の道理 : 二 相手の心を読んで真の愛を施す真の忠孝 : |
人類歴史は、堕落の歴史ですが、人倫道徳を中心として流れてきました。その道徳の中心は愛です。父母の前の孝子は、父母をより一層愛する人であり、国の前の忠臣は、国をより一層愛そうという人であり、国を越えて世界に愛を教えようとするのが聖人の道です。
自分の家庭よりも、自分の国よりも、世界を愛そうとするのが聖人の道理です。聖子の道理とは何かというと、天と地のすべての法よりも王宮法を中心として、「最高の愛を行いなさい」というのが聖子の道理だということを知らなければなりません。愛を中心として、すべてのものはこのようになるのです。
孝子は、家庭を愛するにおいて正しく行かなければなりません。忠臣は、国を愛するにおいて正しく行かなければなりません。聖人の道理は、世界の人々を愛するにおいて正しく行かなければなりません。
天子は、天国の王宮法を守り、天国の国法を守ることはできますが、天国の王宮法の道理のまでは知りません。その王宮の法まで備えて神様に侍ることができてこそ、聖子になるのです。人間が行かなければならない段階はそのようになっています。
孝子になれば国が歓迎するのであり、忠臣になれば聖人が歓迎するのであり、聖人は聖子が歓迎するのです。聖子は神様が歓迎するのです。その核は真の愛です。不変の真の愛、絶対的な真の愛です。
しかし、絶対的な真の愛をもって絶対的な孝子、絶対的な忠臣、絶対的な聖人、絶対的な聖子、絶対的な父の息子、娘の因縁を連結させることができるこの道を知らなかったので、さまよっているのです。どのようなことをしてでも天理と共に行かなければならない道が残っているということを知れば、さまようことはできません。
孝子は、自分のためにいるのではなく、父母だけのためにいるのです。忠臣は、自分のためにいるのではなく、国王のためにいるのです。聖人は、神様だけのためにいるのです。それゆえに聖人は、神様の道理を教えてあげました。
それでは、神様の願いとは何でしょうか。世界を救うことです。神様の事情とは何でしょうか。息子、娘を愛したいと思っていらっしゃるとということです。神様の愛の願いとは何でしょうか。その愛に酔って暮らしたいと思っていらっしゃるのが、神様の愛の願いです。
それゆえに、神様の願いと事情と心情に通じなければなりません。それに通じなければ、孝子になることはできません。それが統一教会の骨子となる思想です。神様の事情を知ろうという人が、神様がいるのかいないのか分からなくていいのですか。神様の願いが何なのか分からなくて、孝子になることができますか。
神様の心情が悲しいのかうれしいのか分からなくて、孝子になることができますか。到底不可能な話です。孝子になる道は簡単です。父母のより多くの苦しみに自分が責任をもとうという立場が孝子となる道です。
食膳を立派に整えてもてなす孝子と、食膳も何もなく手ぶらで来て、何をもって来たかというと、愛をもってきた孝子がいるとすれば、どちらの孝子が良いでしょうか。愛をもってきた孝子だとしても、おなかをすかした母の前に何も食べる物を持ってこなければ、そのような親不孝者がどこにいますか。しかし、「親不孝者が参りました。」と言いながら涙を流せば、食膳を整えること以上になるのです。
それならば、御飯の釜を持って歩くのが孝子でしょうか、愛の釜を持って歩くのが孝子でしょうか。愛は、24時間、時間と空間を超越していますが、御飯は、時間性を超越することができません。それを知らなければなりません。
国家に忠誠を尽くす前に、神様が臨在されるその臨在点で忠誠を尽くそうと誓わなければなりません。社会に奉仕する前に、神様が臨在される所に入っていって奉仕し、認定を受けなければなりません。そのようにしなければ、神様の内的な因縁は、結果である外的世界で実を結ぶことができません。
これが信仰生活の本質です。皆さんは、「世界のために奉仕し、国のために忠誠を尽くす」と言うでしょう? それでは、忠誠を尽くすにおいて、その起点はどこにあるのでしょうか。
必ず家庭におけるその父母の心と体の中から出発しなければなりません。
その時のために、忠誠を尽くして歩調を合わせれば福を受けるのであり、歩調を合わせることができなければ嘆息が生じるのです。
その命令を遂行するにおいて、「私は、私のすべての精誠を尽くしてこのような仕事をした」と言うことのできる人が統一教会の中にいるとすれば、その人々が精誠を尽くして一致化した基準がどの程度か、またその数と量がどの程度か、そして天運をどれくらい多く吸収したかに従って、地上と関係を結ぶことができる広い基盤になるか、ならないかが左右されることを、皆さんは知らなければなりません。
広い基盤にならなかったとしても、先生は、個人を中心として、そのような足跡でも残していかなければなりません。これが蕩減復帰の道です。
愛国者は、国の愛を受けようという人のことです。孝子は、父と母と家族の愛を受けようという人のことです。家族の愛を受ける孝子になることも、簡単なことではありません。人が食べている時に食べずに、人が食べることができるように助けてあげ、人が寝ることができるように助けてあげ、人よりも良い服を着てはならないのです。
遊ぶ時に遊ばず、その国のために生き、家庭のために生きる人が孝子になるのです。自分の家だけではありません。三代を中心として、おじいさん、息子、娘、おばあさん、それから伯母さんたちがいて、母の兄弟がいて、それから何でしょうか。孫娘まで、すべての人が好きにならなければなりません。一人でも好きにならなければ、孝子になることはできません。
そして、親戚がいれば、親戚全員が「あのような息子にならなければならない。あおのような姉にならなければならない」と言うことができてこそ、その一族の中における孝子の称号をもって定着することができるのです。自分の位置が生じるのです。
考えてばかりいてそのことを行わなければ、考えていない人よりも悪いのです。そのような人は、本当にどろぼうです。それがもし思ったとおりにならなければ、盗みしかできないのです。
それでは、神様が喜ぶことができる孝子、孝女とは、どのような人たちでしょうか。どのような人たちですか。自分のおなかを満たす人ですか。自分が食べる物までも人に食べさせてあげなければなりません。「食べない」と言えば、口を開けて食べさせてあげなければなりません。
それでは、父に代わって、皆さんを統一教会の忠臣、烈女、孝子、孝女にするためには、どのようにしなければならないでしょうか。割かなければなりません。一年でできると思いますか。忠臣というものは、もちろんそのように生まれついたという言葉もありますが、生まれつきそのような天性をもっているのならば、死ぬ時までその志操が変わってはいけません。
忠臣になるためには、どのようにしなければならないでしょうか。苦労の道で苦労するしかありません。それが最も近い位置であり、最高の近道です。忠臣、烈女になり、孝子、孝女になることができる最高の近道とは何ですか。
公的な立場で涙を流す生活だけです。涙を流して苦労の道を行かせる方法しかありません。
国をもっていなくても、もった以上にその国の忠臣となり、、民をもっていなくても、その民以上に世界の人々を愛そうとしながら、天の忠臣と孝子の道を一生歩めば、自分に何もなく死んだとしても、滅びる人ではなく、逆にもっと価値があり、その国とその世界の忠臣になることができるということを知らなければなりません。
真の愛を国に与えれば愛国者になり、それが父母に向かえば孝子の中の孝子になります。世界万民の前に立てば聖人の道理を果たすのであり、神様の王国まで行けば聖子の道理をすべて果たすので、神様までも見守ってくださる息子となることができるのです。
真の愛でなければ、真の孝子はいないという結論です。今、誤った愛の伝統を受け継いだ人間たちによる世俗的な愛、フリーセックスなどというものが、この愛の基盤、孝子の基盤、忠臣の基盤をすべて破壊しています。
絶対愛を中心として真の孝子の道理、真の忠臣の道理、真の聖子の道理を経て、神様の前に立つことによって、天国において初めてその時に相続を受けるのです。個人的家庭であるアダム家庭で堕落した内容を相続する時は、未来の国と未来の世界と未来の天国のすべてのものを合わせて自動的に大きくなったものを相続するのです。