第三章 忠孝の道理 : 一 生命までも惜しまない真の忠孝 :

 新郎のために自分の命を捧げれば、烈女だといいます。孝子も、父母のために命を捧げる人のことをいい、忠臣も、国のために命を捧げる人のことをいいます。
 しかし、天の基準は、永遠の命を懸けて忠誠を尽くし、孝行することです。この肉体は死にます。永遠の生命を懸け、それをすべて父のものとして、新郎のものとして、父母のものとして捧げることができる立場においてのみ、天的な烈女の基準が成立します。自らの命が動いて感じるすべてのものを傾けなければなりません。
 それゆえに、聖書にも、「心を尽くし、精神をつくし、思いをつくしなさい」と書かれています。それでは、尽くす基準とは何でしょうか。世界のいかなる忠臣よりも、いかなる孝子、孝女よりも、いかなる烈女よりも勝らなければなりません。
 そうでなければ、神様の威信が立ちません。今まで、サタン世界にも多くの忠臣、烈女がいましたが、そのサタン世界の忠臣、烈女の基準と同じ基準を立てた人を天が忠臣、烈女として立てれば、神様の威信が立たないというのです。

 孝子は、過去から現在まで、時代ごとにすべていました。その中から一番の孝子を選ぶとすれば、どのような人を一番の孝子、孝子の標本として選ぶのでしょうか。老いて孝子の役割をして死ぬよりも、若くして老いた人以上の孝子の役割をしたとすれば、より貴いのです。孝子も千態万状です。貧しい人、裕福な人、雑役をする人、物ごいをして暮らす人、あらゆる階級がありますが、孝子はどこにもすべています。
 生きている人が真の孝子になることはできません。生命をまだ残している人が、孝子の部類に入っていくことはできません。孝行するために数多くの人々が死んだのですが、死んでいない人が孝子の表彰を受けたとすれば、孝行するために死んだ人々から讒訴されるのです。
 死んだ人の中にも、孝行するための道を行く途中で死んだ人もいるのです。父と母が病気になったので、薬を買いに行く途中で死んだ孝子もいるでしょうか。
 薬を買いに行くのに、自分のお金をもって買いに行った人もいるはずであり、借金して買いに行った人もいるはずです。困難であればあるほど、その価値が大きくなるのです。忠臣も、死ぬ前には忠臣になることはできません。同じ道理です。

 孝子になろうとすれば、どのような立場に立たなければならないでしょうか。死の道、一番の受難の道に責任をもつことができる立場に立たなければなりません。孝子として行くべき道とは、何でしょうか。
 「父母である私を愛する以上に兄弟を愛し、お前が私のためにいるように、兄弟のためにいてほしい」。これが、孝子の行くべき道です。父母は、このように自らの願いを言うでしょう。

 孝子の中の本当の孝子とは、どのような人でしょうか。父母のために一生をすべて犠牲にし、70歳、80歳の高齢になるまで孝行を尽くした人と、若い青春時代に父母のために生命を捧げた孝子がいるとすれば、どちらをより孝子と言うことができるでしょうか。
 いくら70.80になるまで孝子の役割を果たしたとしても、青春時代に父母のために生命を捧げた孝子にはかないません。それゆえに、忠臣は、死んだのち、生命を捧げたのちに決定するのです。真の孝子も、生命を捧げる立場で決定するということを、私たちは歴史時代においてたくさん見て知っています。

 忠臣の名をもって立ち上がる人も、天のために生きてこそ忠臣という称号を天から受けるのです。孝子の行く道元、やはり同様です。ですから、どれほど貴重であり、大切なものかというのです。
 私が食べるのもそのために食べ、私が見るのもそのために見て、私が話すのもそのために話し、私が行動するのもその目的のために行動しなければなりません。
 たとえそれが悲しみと涙の道であったとしても、天上の主人であられる神様が行かなければならないその道を代わりに受け持って行かなければならないので、孝子の道理と忠臣の道理を果たさなければならない責任があるということを、私たちは知らなければなりません。
 神様の涙の道をふさぎ、渡しがちに倒れることがあったとしても、再びその道を行かなければなりません。そこで忠孝の道理を果たさなければなりません。

 孝子や忠臣は、死を共にしなければ、本当の忠臣ではありません。本当の忠臣は、死ぬ前にはいません。いくら苦労したとしても、きょう、一言後悔の言葉を言えば、忠臣になることはできません。いくら忠臣であったとしても、この時間に不忠をすれば、逆賊になるのです。死の峠を越えていく時まで忠孝の道理を果たしてこそ、「忠孝を全うした」と言うことができる人になるのです。
 それゆえに、公的な道においては、忠と孝はその過程が同じです。国のために生命を捧げた人を「愛国者」と言い、父母のために生命を捧げた息子を「孝子」と言うのです。
 父母が死ぬ前まで親不孝したとしても、父母が死ぬ最後の場に置かれた時に、今まで孝行してきた子供が親不孝になり、親不孝してきた子供が転換すれば、孝行してきたその位置を受け継いで一瞬の孝行をすることによって、父母から「孝子だ」と言う声を聞くようになるのです。
 そのようになれば、その一日の孝道の基準とともに孝子の称号をもって登場するようになります。
 生命が尽きる時までその目的に向かっていく人の前に、栄光の相続がなされるのです。

 長く苦労するよりは、本当に忠誠の心をもって、重大な問題と世界的な問題に身を捧げて死んでしまいましょう! 爆発してしまいましょう! このような覚悟をもつことが、堕落した人間としては素晴らしいことだと先生は思っています。もし神様の前でそのような最期を遂げたとすれば、既にその人は素晴らしい所に行くように決定されているのです。

 父母は、孝子、忠臣、聖人、聖子のような前進的なことを教えてあげなければなりません。孝子、忠臣、聖人、聖子の道理を果たし、そののちに神様まで行かなければならないことを自分の息子に教えてあげなければなりません。
 そのように教える人がいるとすれば、神様が御覧になる時、「やー、あの人は父母の役割を果たしている。あの人は先生の役割を果たしている。あの人は主人の役割を果たしている」と思われるでしょうか、思われないでしょうか。
 「あなたには、父母の資格があり、先生の資格がある」とおっしゃる時は、主人の資格があり、さらには王になることができるのです。西欧の人々に孝子という概念がありますか。忠臣の概念がありません。聖人の概念がありません。聖子という概念がありません。ですから滅びるのです。
 神様は、聖子になることを願っていらっしゃいます。それならば、聖人は誰が願うのでしょうか。世界が願います。国は何を願うかというと、忠臣を願います。家庭は孝子を願うのです。これがまさしく真の真理の道です。

 真の父母がいるとすれば、「あなたは孝子になったので、忠臣になってはいけない。忠臣の道を行ってはいけない」と言いません。真の父母は、その孝子に「あなたは、家庭を犠牲にし、忠臣の道を求めて国に仕えなければならず、聖人の道理を果たさなければならず、聖人の道理を犠牲にして天が願う道を行かなければならず、天地を犠牲にして神様を訪ねていかなければならない」と教えてあげなければなりません。
 そのようになろうとすれば、個人は家庭のために犠牲にならなければなりません。家庭のために犠牲になってこそ、孝子になるのです。また、国の愛国者になろうとすれば、その家庭全体を犠牲にしてでも国を救わなければなりません。そのようにしてこそ、愛国者になるのです。聖人は、自分の国を犠牲にしてでも世界を救わなければなりません。
 聖子は、世界を犠牲にしてでも、天上天国と地上天国を築かなければなりません。このような概念があるということを知りませんでした。投入して犠牲にならなければなりません。
 そのようにしなければ、一つの世界、一つの国は永遠に現れません。

 キリスト教徒の数が問題ではありません。神様の体となり、神様の命令によって、いつでも、どこにでも行こうと決意する人、神様が「命令を待ちなさい」と喜んで命令したいと思われる人が要求されるのです。
 今日、何億という信者を誇るキリスト教徒の中から、果たしてそのような人を探すことができるでしょうか。わき腹に剣を突き付けて、「あなたを天の祭壇の犠牲物として捧げようと思うが、生命を捧げることができるか」と尋ねた時に、その峠を越えることができなければ何にもなりません。命を懸けて神様を愛する孝心に燃える人、天に対して身もだえすることのできる群れがこの時代に必要です。私は、そのような群れが終わりの日の天の革命軍だと思っています。
 全世界の人類の前にそのような責任を全うしようという徹頭徹尾の思想をもった個人、家庭、民族、国家がどこにあるのかと、神様は探されるでしょう。
 神様は、早くからそのような個人を探してこられました。そのような個人は、神様の心情を慰労してさしあげ、神様の前に忠誠の道理を果たし、孝道を尽くさなければなりません。天地のあらゆる事情を解き明かさなければなりません。
 そのようにして、神様が、「この時代の前に責任を負うことができる者があなただ。あなたを見ると、あすに望みをもつことができ、あなたを見ると、きょうの闘いを勝利に導いていくことができる」とおっしゃってくださる一個人にならなければなりません。このような個人が絶対的に必要です。
 そのような個人を神様がつかまれ、「あなたは骨の中の骨であり、肉の中の肉であり、心情の中の心情だ」とおっしゃることができなければなりません。いくら歴史上の多くの先祖がいて、時代的に多くの人類がいたとしても、心情を中心として、「あなたは、歴史において、あとにも先にもない最高の先祖の立場にいる」とおっしゃることのできるお方がこの地上に現れない限り、人類始祖の堕落による悲しみの歴史は清算されないのであり、その中で生まれた私たちは、また再び、ある父母に侍らなければならないのです。

 世界のための神様のみ旨が残らなければならず、世界を愛する神様の愛が残らなければなりません。したがって、皆さんは、死んでもそれらを残してあげなければなりません。それを残すために自らの生涯を犠牲にする人は、孝子になり、忠臣になるということを、皆さんは知らなければなりません。
 一日孝子や一日忠臣は必要ありません。一日孝子には、どれほど悪い強盗でもなることができるのであり、一日忠臣も、やはり誰でもがなることができます。その場で悔い改めればなることができるのです。神様は、生まれる時から孝子、忠臣として生まれ、孝子、忠臣として生きたのち、孝子、忠臣として死ぬことができる人を願っていらっしゃるのです。
 先生と皆さんを比較すれば、先生は、神様の前に皆さんよりも孝子です。なぜならば、今まで、生涯を捧げてこのような仕事をしてきたからです。
 しかし、私が孝子の道理を果たしたとは夢にも思っていません。歩めば歩むほど足りなさを感じます。孝子の道理、忠臣の道理を果たしたと思う人は、そこで孝子や忠臣としては終わりです。
 「私は孝子なのに、私は忠臣なのに、なぜ分かってくれないのか」と言って抵抗する人は、その峠から後退する人です。歩めば歩むほど孝の道理が残っていて、歩めば歩むほど忠の道理が残っているということを発見し、その孝を果たすことを自らの生涯哲学として生きる人であってこそ、天の孝子になり、忠臣になることができるということを、皆さんは知らなければなりません。

 今、私たちが学ばなければならないことは、幸福の中にいらっしゃる神様を学ぶことではありません。それは、そのようにしても良く、そのようにしなくても良いのです。先に知らなければならないことは、孝子になり、忠臣、烈女になることです。孝を立てる人は、困難な中から生まれます。忠を立てるのは、その国が完全に平安な立場において成されるのではありません。
 国が泰平で、国民が安らかな立場において成されるのではありません。国の状態が最後の峠にぶつかり、「お前が死ぬか私が死ぬか。全体が死ぬか生きるか」という最後の逆境において、自らの命を懸け、あらゆる精誠を尽くして、国運を転換させ、国難を解決してあげる責任を果たした者であってこそ、その国の「忠臣」と言うことができるのです。困難な時に「忠」の名詞、困難な時に「孝」の名詞、困難な時に「烈女」という名詞が、歴史路程の中に記録されるのです。

 皆さんは、妻に関心をもつよりも、南北に分断された皆さんの国を思わなければなりません。分断されている民主世界と共産世界を思わなければなりません。
 南北を一つにしたのちは、自由世界と共産世界に分立されたこの世界を一つにしなければなりません。それを一つにしたのちには、分かれている霊界と地上を一つにしなければなりません。
 これを一つにして神様を解放することが、息子の名前をもった孝子の行かなければならない道だということを知らなければなりません。

 したがって、真の孝子の道を行くためには、歴史始まって以来の迫害がどれほど激しく、困難な峠道が多かったとしても、それを克服することができる余裕に満ちた男性にならなければなりません。
 艱難と試練の中で苦しめられ、後退して悲しい恨の道に行くのではなく、億千万代の苦衷と受難の道を克服して、また克服しながら、決意して誓い、あすの希望にあふれた再出発の道を促していきながら、死の道も選んでいくことができる道を残していかなければなりません。そのような歴史的要素と神様の要求があるということを知らなければなりません。