第二章 真の忠孝 : 三 真の忠孝は従順に、より「ため」に生きる愛を施すこと :

 孝子は、父母が生きている時に孝行しなければなりません。忠誠も、国王が生きている時に尽くさなければなりません。死んだあとでは、千万倍の孝行も無益であり、千万倍の忠誠も無益です。そのようにする者は、ずる賢い者たちです。
 死んでから大きな祭祀の膳を捧げるよりも、生きている時に一言でも慰労するほうが勝っているのであり、自分が悲しみの相対となってその心を慰労することのほうが、千万種類の食物で整えられたその祭壇よりも美しいということを知らなければなりません。死の道を追慕しながら行く人よりも、その死の道に行く前に、目的のためには行く人のほうが貴いのです。

 孝子になろうとすれば、父母の心の方向と常に一致していなければなりません。孝子の道を行く人は、父母と掛け離れた行動をする人ではありません。
 父母が東に行けば東に行かなければならず、父母が西に行けば西に行かなければなりません。行く目的を提示したのちに、行く途中で回れ右をすれば、一緒に回れ右しなければなりません。そこに異議があってはなりません。十度行き、十度回れ右をしたとしても、また回れ右をして従っていかなければなりません。
 反抗すれば、孝子の道理を最後まで守ることはできません。父母が狂ったことをすれば、子供も狂ったことをしなければなりません。父母の命令ならば、狂ったことでもしなければなりません。狂ったことをすること自体はいけないことであり、父母が分からずにしているのならば知りませんが、分かってしているというのです。
 それでは、なぜ父母は狂ったことをするのでしょうか。孝子の中から最後の孝子を選び出すためには、その道しかないからです。100人の孝子がいるとすれば、その100人の中から一番になることができる孝子をつくるために、その父母は狂ったことをするのです。
 しかし、その気まぐれを真実だと思い、生命を捧げてその父母の命令の前に絶対服従をすれば、その人は、孝子の王になることができるのです。

 孝子とは、父母を愛し、兄弟を愛した人です。より「ため」に生き、より愛する人が、その家庭の相続者になります。それゆえに、すべてそのような道に方向を取らなければなりません。今日のあらゆる理想的作用の主流は、真の愛が行く道です。真の愛が主流です。それ以外のものは、すべて傍系的流れです。
 したがって、「孝子、孝女になりなさい」という言葉は良い言葉です。今日、母親の時代と若い時代では差があると言いますが、とんでもないことです。母親の時代と若い時代では、愛に差がありますか。女性として生まれ、一人で生きることができますか。また、男性として生まれ、一人で生きることができますか。口にも出してはいけません。
 1年を一緒に過ごしたのちに行く時に、「もう一日だけいてくれたらいいのになあ」と言うこと、それが貴いのです。100年生きたのちに逝く時も、「ああ、もう1時間だけで生きてから逝ってくれたらいいのに……」と言う妻になっていますか。そのような夫になっていますか。そのような兄弟になっていますか。
 いくらかのお金のために、「お兄さんはお兄さんであって、私は私でしょう。お兄さん、私が100万ウォン貸してあげたのに、なぜ返してくれないのですか。愛であれ何であれ、私は嫌いです。お金が一番です」と、このように言ったとすれば、その人は、もって生まれた福をすべて売ってしまうことになります。
 千万長者や億万長者になることができる福をもって生まれ、愛があればすべての宇宙の福が来て巣をつくってくれいたはずなのに、「ああ、あのけち」と言って無慈悲に逃げてしまうのです。ですから、人は孝子を好むのです。

 父母の愛の道に従っていこうとするので孝子が必要であり、国の愛の道に従っていこうとするので愛国者が必要であり、世界の愛の道に従っていこうとするので聖人のような人が必要なのです。
 皆さんの息子、娘はたくさんいますが、その息子、娘の中で、息子の中の息子とは、どのような人でしょうか。父母のために厚い愛の因縁をもった息子を、孝子というのです。
 孝子だというのです。孝子の中の孝子を中心として、父母の行く方向を連結させるのです。

 父母が大便を漏らそうと何をしようと、すべて自分の赤ん坊のように愛し、抱いてあげることができる息子、娘ならば孝子です。天国に行くことができる息子、娘だ、このように思うのです。

 息子、娘の中には、孝子もいて、ただの普通の息子もいて、不孝者もいるでしょう。三種類です。最高の孝子になろうとすれば、神様と競って負けてはならないという結論が出てきます。
 そのようになろうとすれば、どのようにしなければならないでしょうか。歴史過程においてこの地上を経ていったいかなる聖賢、賢哲以上に、神様のみ旨の前にみじんも疑わない者にならなければなりません。
 神様に、「あなたが息子を引き離すような疑わしいことばかりを私におっしゃったとしても、私は信じます。『信じることはできないだろう』とおっしゃったとしても信じます。愛する父母が最も悪なる父母となっても、むちで打ったとしても、私は、愛する孝子以上の心をもってあなたに従います」と言わなければなりません。神様は、そのように思っていらっしゃいます。

 父母が寝たとしても、孝子は眠ることができません。眠って起きたのちは、罪人のように悔い改める生活をしたのです。食べたのちも、申し訳なくて顔色をうかがう人です。
 結局は何かというと、孝子の道です。孝子の道をどのように行くのでしょうか。これを見れば、先生は狂った人です。父母を顧みたでしょうか、妻子を顧みたでしょうか、兄弟を顧みたでしょうか、親戚を顧みたでしょうか。国を顧みたでしょうか……。
 私は、国を思ってあげなかったのではありません。より次元の高い立場で、国のために行こうとしたので……。日帝時代に、私が国のために涙を流したことは……。愛国者に負けない涙を流しました。

 父母が、この道は死んでも行かざるを得ないということを本当に知ったならば、子供を神様のところに連れていかなければなりません。父母の使命を果たすことができなかったのは、知ることができなかったからであり、知ったならば、祭物としてでも連れていかなければなりません。むちで打ったとしても、それは善です。ですから、先生は、「父母が正しく立っていさえすれば、子供が救われないことはない」と言います。もし父母に対して不孝者がいるとすれば、追い出してしまいなさい。
 そして、父母に孝行する者を自分の家に連れてきて、養子として立てなさい。