第七章 神様と真の御父母様 : 二 真の御父母様に対する忠誠は神様に対する忠誠 :

 父母に親不孝した息子の立場に置かれているのが人類です。不幸を招いた張本人が、私たち人間です。天の前に言い表すことのできない不孝をしたので、親不孝した者が天の前に堂々と立つためには、孝子となることのできる立場に立たなければなりません。
 統一教会の食口たちは、天の孝子となることを誓って立ち上がったということを自負しています。しかし、私たちは、再度冷静に批判、分析しなければなりません。私の手が、天の前にどれほど孝子の手として、天が慕う手となっており、私の顔がどれほど天の前に孝子の姿として、天が慕うことのできる人になっているでしょうか。
 自らの一身が、どれほど孝子の触媒となり、いかなる逆境にあっても、昼夜その逆境を克服しながら、孝子の行く道を開拓してあげるために努力される父の姿を現すことができるようにしてさしあげたのかという問題を考えてみるとき、そこでは、私たちは自分というものをもつことができません。

 孝子になろうとすれば、父母のすべての苦労を、あるいは父母の前に最も困難な道を選んで責任をもつために立ち上がる者にならなければなりません。
 また、そのような孝子になることができない子供を孝子にさせたいと思う父母がいるとすれば、その父母はどのようなことをさせるでしょうか。死ぬほどのことをさせるのです。「おい、これをしなさい」と言って、兄弟の中で最も大変なことばかりを選んでさせるのです。
 ただ一つしかない孝子の名をもってこられるお方がメシヤです。ただ一つしかない孝女の名をもってこられるお方が、メシヤの新婦です。
 イエス様は男性なので、男性の前に女性だからといって、すべての人が新婦でしょうか。新婦がたくさんいるのですか。新婦は一人しかいません。しかし、新婦になろうとするところでは、誰もが競争することはできるのです。

 故郷に孝子がいるとすれば、歴史時代において、その地にいた孝子の中のいかなる孝子よりも立派な大王の孝子にならなければなりません。忠臣がいたとすれば、それよりも立派な大王の忠臣にならなければなりません。
 いくら孝子と忠臣になったとしても、真の父母と横的な因縁をもたなければ何の意味もありません。真の父母を中心として、横的な父が水平になる時、縦的な父が現れるのです。
 完全なマイナスが生じるようになれば、完全なプラスが訪ねてくるのです。

 真の父母とは何かというと、家庭では孝子、国家では忠臣、世界では聖人、天地では聖子の伝統的道理をすべて果たした人です。
 そのようなコンセプトをもたなければ、神様を中心とした家庭において、神様の願われる孝子として立つことができず、そのような中心を中心として築かれた国において、神様の国を中心とした忠臣として立つことができず、そのような世界において神様が願われる聖人として立つことができず、そのような天地において孝子となり得る聖子として侍ることはできません。
 それゆえに、私たち自身が、このようなサタン世界の蕩減復帰のために、このような四大条件を完成し、天の前に奉献しなければなりません。聖子とは何かというと、天国の宮殿法と天国の法と地上の宮殿法と地上の国の法を守らなければなりません。天国にも王宮があり、国があるのです。
 地上のすべての宮殿法と国の法と、天上世界の宮殿法と国の法を完成し、それをすべて守ることができなければなりません。それを守ることができてこそ、聖子になるのです。
 その故郷の地を訪ねていって何をするかというと、「家庭盟誓」の第二番の孝子、忠臣、烈女にならなければなりません。二番を成すのです。今までは神様は、そのようなものをもつことができなかったので、サタンのものだったというのです。

 三千里半島の至る所で、三千万民族の代わりとなり、父のために忠孝を果たそうと誓う群れが現れることを先生は待ち望んでいます。
 皆さんが胎中にもいない時に、先生はこのような誓いをなしたのであり、皆さんがこのような道を行くことを夢にも思わなかった時に、既に先生はこのような道を歩んでいたのです。涙が多いとすれば、三千万民族の誰にも劣らないほど涙が多いのです。誰かが現れて私に一言でも言えば、抑えることができずに痛哭してしまうでしょう。
 この世から見れば、先生は本当にかわいそうな人です。どれほどかわいそうでしょうか。心の安らぐ場所がありません。天地がどれほど広くても、心の安らぐ場所がないというのです。
 イエス様が、「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」(マタイ8/20)とおっしゃいましたが、その心が理解できます。

 皆さんは、先生に対して、天の父母のように孝行したことがありますか。サタン世界に生まれて死んでいった数多くの孝子たちも、その国が追慕することのできる孝子の碑を残したのではありませんか。
 また、いつ忠臣の道理を果たしたのかというのです。死ぬ最後の時まで、生命を捧げるまでは、孝子になることはできないのであり、忠臣になることはできないのではないですか。私は、そのような人を願いました。私が教育したのは、そのような人を願って教育したのです。それにもかかわらず、標準がすべてずれてしまいました。
 いつ皆さんが、本当に意味で国を愛し、本当に意味で兄弟を愛し、本当の意味で先生を愛し、本当の意味で先生の家庭を愛したことがありますか。蕩減復帰の原則において、いかなる孝子よりも、いかなる忠臣よりも勝っていなければならないのではありませんか。それが、「原理」が教えてくれている教示ではありませんか。
 そのような基準に立ったことがありますか。このようなことを皆さんは知らなければなりません。

 先生が命令することのために、なぜ手が曲がるほどに忠誠を尽くすことができないのかというのです。それを見つめる時、その話を聞く時、なぜ胸がふさがって痛哭が出てくる歴史の条件を残すことができないのかというのです。簡単で易しい方法だというのにです。
 家庭を代表して父母の前に孝行し、国に対して忠誠を尽くし、天に対してすべてのことをなし、歴史的な勝勢の権限をもっていくことができるチャンス、天のすべての偉業を無条件に相続し得る絶対的なチャンスを得たにもかかわらず、なぜそれをすることができないのかというのです。そのようにしてこそ、地から国を経て天国に入っていく時に、遮る者がいないというのです。
 サタンはどのようにするのかというと、家庭の前で遮ったのです。私個人がいくら完成したとしても、父母の前に孝行しなければなりません。そのようになっています。また、いくら父母の前に孝行したとしても、国の前に忠誠を尽くすことができなければなりません。
 いくら国の前に忠誠を尽くしたとしても、人類の前に忠誠を尽くさなければ、天国に行くことはできません。

 私が愛さなければならない万物という父母の前に孝子となることができなかったのであり、私を生んでくれた父母の前に孝子となることができなかったのであり、この霊界と神様の前に孝子となることができなかったのですが、先生を中心として真の父母に侍ることによって、代わりに孝子の資格を与えてもらうことができるのです。それゆえに皆さんは、粘り強く従っていかなければなりません。

 世の中の若い男性や女性対とも、「発愛は忘れることができない」と言うでしょう。皆さんは、みな結婚したことがなくて分からないかもしれませんが、発愛は忘れることができないものです。
 神様と私たち人間との間で父と息子の因縁をもち、父の前に孝行した孝子として記憶された息子、娘は、神様の心の中から取り除いてしまおうとしても、絶対に取り除くことができません。それは、アダムとエバよりも勝っている立場に立っているからです。
 アダムとエバは孝子になったでしょうか。孝子になることができませんでした。孝子になる道とは、どのような道でしょうか。孝子の道を行こうとすれば、父のみ旨のとおりに生きなければなりません。父のみ旨のとおりに生きた人でなければ、孝子になることはできません。

 自分のために苦労してくださる父母の前に孝の道理を全うするためには、まず涙をもって父母を慰労し、引き受けた十字架を堂々と背負っていかなければなりません。
 あなたが歩んでこられた十字架の道は、子女を愛するがゆえに悲惨だったという事実を告げる心をもって、「父よ! これ以上苦労しないでください。父よ! 私のためにこれ以上心配しないでください!」と言うことのできる立場に立たなければなりません。
 これが、今まで悲しみを受けながら歩んでこられた父母である神様の前に、立つことのできる孝子の姿ではないでしょうか。このようなことを思うとき、今日、私たちは神様の前にあまりにも厚かましく、あまりにも傲慢だったという事実を発見するようになります。

 天地を代表して真の父母に侍るにおいて、歴史上のいかなる先祖よりも、いかなる時代の人よりも忠孝を尽くすという自覚をもって行動しなければなりません。そのように行動すれば、天とその環境において、すべての人が影響を受け、自分を中心として一つになるのです。

 皆さんは、社会に忠誠を尽くさなければならず、教会に忠誠を尽くさなければならず、家庭に忠誠を尽くさなければなりません。それでは、教会とは何をする所でしょうか。人格を形成し、人格を育てる所です。堕落したので、教会が必要です。家庭と社会で終わるのではありません。
 人格を復帰するにおいては、そのままでは復帰できません。大学を卒業して何かの博士の学位を受けたからといって、それで人格が復帰されるのではありません。ですから、教会が必要だというのです。
 それでは、どこに忠誠を尽くさなければならないのでしょうか。家庭に忠誠を尽くす前に、教会に忠誠を尽くさなければなりません。社会に忠誠を尽くす前に、教会に忠誠を尽くさなければなりません。教会が主体であり、家庭と社会は対象です。
 知恵深い人はどこに立つのでしょうか。対象の立場に立つのではなく、主体の立場に立つのです。主体の立場は一つしかありません。
 対象は、東西南北の四方において360度回転しなければなりませんが、主体は、中心のただ一箇所しかありません。それは、ある圏内の絶対的な立場です。二つではありません。中心が二つになることができますか。これが行ったり来たりすれば、滅びる可能性が大きいのです。

 大統領になるには、大統領になり得る基盤を築かなければなりません。いくら皇太子として生まれたとしても、王になるには、王になり得るすべての法度と規則を学ばなければなりません。
 ですから、皆さんは、言葉ばかり言うのではなく、人類歴史最後の路程で、父母の言葉を一つ聞いて実践するのです。そのようにすれば、神様が「あなたは孝子だった」という印を押して、天国の孝子として天国に送ってくださるのです。これは、どれほど驚くべき愛でしょうか。その基盤は何ですか。家庭教会という基盤です。天国は孝子が入っていくのです。
 息子は息子でも、ならず者は入っていくことができません。孝子の名をもっていかなければならないので、孝子という名の印を押してもらうためのものが家庭教会です。

 家庭で安楽に暮らす人々は愚か者です。家庭天国の垣根の中にしかとどまることができません。ですから、代表的家庭になり、中心的家庭にならなければなりません。それで、孝子、中心、聖人、聖子の道理は、私が行く道だというのです。天性的に私が必然的に行くべき道だというのです。
 それゆえに、家庭では孝子にならなければなりません。それから、国では忠臣にならなければなりません。忠臣は、生まれながらその道理を外れることがありません。夜も昼も、焦点を合わせていかなければなりません。先生は、一生の間、寝ても覚めてもみ旨という焦点を忘れたことがありません。床から起き上がれば、それを続けます。千年、万年続けるのです。
 先生が勝利した内容があるので、「氏族的メシヤの責任を果たすことができなかったとしても、国家的メシヤの責任を果たして、自分たちの誤ったことを清算しなさい」と言って前に立てたのです。そこで孝子にならなければならず、忠臣にならなければなりません。世界と国家を愛する心で、兄弟たちのために祈祷しなければなりません。そのようにしてこそ、真の御父母様に従って聖子の地位をもち、神様のみ前に現れることができるのです。

 先生が国を担いました。その道において、皆さんが功臣です。それゆえに、孝子の道、烈女の道、忠臣の道を築くために行く道だということを知らなければなりません。それが氏族的メシヤの使命です。
 孝子は家庭における息子の立場であり、烈女は夫婦の立場であり、国を代表する父母の立場は忠臣です。忠臣になることによって国と連結され、父母の立場を代表するのです。

 先生のために、神様は多くの涙を流しています。そのよようなことを知らないでしょう? 皆さんの中に、先生に涙をたくさん流せる孝子、孝女がいますか。それを願っているのです。
 そのような人は、まだ探し出すことができずにいます。深刻な男です。