第七章 神様と真の御父母様 : 一 真の御父母様は忠孝の標本 :

 私たちは、イエス・キリストを「王の王」と言っています。「主の主」、あるいは「絶対者の主体者」と言っています。しかし、そのお方の前で、「忠臣だ」と言って祝福された人はいません。このことを知らなければなりません。天の忠臣が現れず、天の孝子が現れず、天の烈女が現れなかったのです。
 ある絶対的な信仰をもった人がいて、天が、天地を統治することのできる位置にその人を立てて祝福してあげたいと思われるとすれば、その人は、最高の位置に行くようになるでしょう。そのようにしようとすれば、その人は、その国の「最高の忠臣」という名前をもたなければならず、その国の「最高の孝子」という名前をもたなければならず、信仰者たちを「新婦」と言われたので、その国の「最高の烈女」という称号をもたなければなりません。しかし、神様は、六千年間復帰摂理をしてこられましたが、「あなたは、天地が生じたその日から今日までの歴史において、かけがえのない私の忠臣だ」と言って祝福してくださった人はいません。「創世以後今日までの歴史において、あなたは私の前における真の孝子だ」と言って祝福してくださった人はいないのであり、烈女として祝福してくださった人はいないというのです。
 それは、この地の各国家が、天が誇ることのできる主権をもった国になり得なかったからであり、この地の家庭が、天が永遠に愛して守ってくださることのできる真の父母をもった家庭になり得なかったからであり、この地の人々が、天が永遠に信じてくださることのできる真の新郎新婦となり得なかったからです。
 ですから創世以後今日まで、創造主が、この地上で暮らす人間たちの中で、「あなたは私の愛する息子、娘だ」、「あなたは天上天下を代表した孝子だ」と言って誇った人はいません。「あなたは私の前における忠臣だ」と言って誇った人はいないのであり、「烈女だ」と言って誇った人はいないのです。
 堕落した私たちは慕っています。天が認める忠臣になり得る、その国を慕っているのです。真の父母に侍って孝子となり得る、その世界を慕っているのです。
 真の新郎新婦となって、天の懐に抱かれ得る、本然のその世界を慕っているのです。これが、人間の願う最大の目標です。

 この世界は、父母が慕わしいので、その父母が来られる日のために準備するのです。その一人の主人公、一つの父母、一つの世界が、神様が今日までの六千年間苦労してこられた結実であり、願ってこられた目標です。ここに、その父母に代わって立つことのできる心情的な後継者が出てこなければなりません。
 心情的な後継者です。言葉だけでの後継者ではなく、姿だけ同じ後継者ではなく、喜ぶだけの後継者ではなく、父母の悲しみと苦痛を自らのものとして、父に代わって苦痛を受け、父に代わって悲しみながら、心情的天の前に忠孝の道理を立てようともがく後継者のことです。そのような群れだけが、天の前に立つことができるのです。

 今日までの歴史路程は、善と悪の闘争によってつづられてきた路程です。このような歴史が私の前に迫ってきたので、私を中心として、悪は悪として、善は善として分立しなければなりません。「私」という存在は、この勝敗を左右する鍵を握った人です。
 したがって、私は、個人を超越した公的な存在だということを肝に銘じなければなりません。過去に忠誠と孝行で公的な使命を完遂するために苦労した先祖たちのその歴史的な偉業を継承する者は、彼らよりも公的使命の前により忠誠を尽くし得る人でなければなりません。
 したがって、私たちが公的な使命を担うためには、歴史を超越した宇宙的な忠孝烈の心情と覚悟を備えなければなりません。

 忠臣とは何でしょうか。国王に対して精誠を尽くす人が忠臣でしょうか。違います。民を国王と同じように愛することのできる人が忠臣だということを知らなければなりません。
 孝子とは何でしょうか。父母のために精誠を尽くす人ではありません。父母を愛するのと同じように、兄弟のために精誠を尽くす人が孝子だということを知らなければなりません。
 真の聖子、神様の息子、娘とはどのような人でしょうか。神様を愛するのと同じように、神様に属するすべてのもののために歩もうとする人が聖子です。
 それゆえに、私は聖子の道を歩もうというのです。先生は、神様も愛していますが、人類も愛しています。怨讐であるアメリカまでも愛しているのです。そうであってこそ、神様が御覧になるとき、「私の息子よ」とおっしゃることができるのです。どこどこの国の息子ではありません。大韓民国で生まれましたが、韓国人ではありません。大韓民国の息子ではありません。神様が「私の息子よ」とおっしゃることができる人は、神様を愛するのと同じように、人類のために生きる人です。そのような人が神様の息子です。
 御自身のことを忘れて人類のために生きる神様なので、自分を忘れてこの人類のために生きるのです。そのように生きるので孝子だというのです。その定義をはっきりと知らなければなりません。
 私たちは、孝子の道と忠臣の道から聖子の道を尋ねて行くのです。聖人の道を尋ねて行くのではありません。そのような内容を中心とした孝子の道理と忠臣の道理を通じて、聖子の道理を成し遂げてこそ、その国が何の国となるのですか。地上天国です。そこで生きれば、そのまま天国に行きます。そのようにすることが神様の創造理想だったのです。