第四章 神様に対する忠孝 : 三 イエス様の忠孝 :

 イエス様は、「どのような難しい環境にぶつかっても、その環境を克服するためには忍耐心をもたなければならない」と主張しました。「罪人が悪に対して忠誠を尽くす以上に神様のみ旨のために忠誠を尽くさなければならない」と言ったのです。これがキリスト教でいう、聖霊の九つの結実の根本です。愛の生活をするようになれば、喜楽と和平が現れ、忍耐を通して慈悲と良善が現れ、忠誠を生活をすれば柔和と謙遜が現れます。
 イエス様は、堕落圏内にいる人間たちのすべての悪の要素を除去してあげるために、天的な愛と天的な忍耐、天的な忠誠を強調したのです。これが天国の理念を達成させ得る実践的な理念ですが、今日、皆さんの心にこのようなキリストの愛がありますか。
 また、忍耐と忠誠心がありますか。イエス様は、神様の心情に代わって顕現なされた愛の化身体であり、寂しいゴルゴダの道においても万民の苦痛を心配なさった忍耐の主人公であり、歴史上の誰よりも天に対して忠誠を尽くした忠誠の代表者でした。
 それでは、このようなイエス様の愛、忍耐心、忠誠心はどこから来たものなのでしょうか。これらは、イエス様自身が起源となったものではありません。イエス様は、神様の愛を人間に連結させる仲保の役割をするのです。無知な人間を救うために来られたイエス様は、神様の愛の化身であり、神的な価値の実体でした。

 神様は、このように真のみ旨を成すために、御自身のような人、全体の価値を代わりとすることができる人を取り戻すために、人間が神様に対して忠誠を尽くす前に神様が人間に対して先に忠誠を尽くされたのであり、無限に忍耐してこられたのです。
 したがって、皆さんは、天倫を中心として運行なさる神様と、み旨を成就するために人間に対して無限を忠誠を尽くされたその事情を体恤しなければならず、この志を立てるために無限に犠牲になってこられた神様の心情、また未来の理念を立てるために無限に御自身を超越なさった神様の心情、無限に与えようとされる神様の愛の心情を体恤しなければなりません。

 イエス様は、人類の父として来られ、聖霊は、人類の母としてこの地に来ました。しかし、彼らは、霊肉を中心とした父母になることができずに霊的な父母としてのみ役事してきました。
 イエス様の十字架における死は、霊肉が一つになった立場でサタンに勝利したのではなく、サタンに追い込まれて死んだのです。それゆえに、体はサタンに差し出し、霊だけが復活したのです。四十日後に復活して弟子たちを集め、霊的な基準を中心として第二イスラエルを出発しました。これが今までのキリスト教二千年歴史なのです。
 それでは、第一イスラエルはどこにいるのでしょうか。第一イスラエルは滅びました。第一イスラエルであるユダヤの国は、イエス様を殺した罪によって滅び、第二イスラエルが登場しました。神様は、メシヤを待ち焦がれたイスラエル民族を四千年間率いて保護し、育成し、四千年間苦労したその功績の基盤の上にメシヤを送られました。
 それにもかかわらず、この民族は、メシヤを信奉することができずに十字架の死の道に追い込んだのです。それで、この民族は、神様の前に怨讐になったのです。
 イスラエル民族は、この時から国のない民族になりました。そして、イエス様が再び来る時までは独立できないのです。イエス様を殺した罪を蕩減するために、二千年間多くの苦労をしなければなりませんでした。イスラエル民族は、万人類のために万民の先祖として来られたイエス様を、刑場に立てて血を流すようにしたので、国のない民族として苦労したのです。
 その時のイスラエルは、霊的にも肉的にも、どこに出ても堂々とした権威をもった国でした。イエス様は、このような国家圏の上に来られて、国家を収拾し、世界を復帰しなければならない責任があったのですが、イスラエル民族が信奉せずに死の位置に追い出したので、イエス様はやむを得ず霊界に行くしかなかったのです。
 しかし、イエス様は、神様のみ旨を立てることができる忠孝の道理をすべて果たしました。死の道を行きながらも、万民に代わって天倫の使命と責任を全うしようと思い、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ26/39)と言いながら、忠孝の道理を立てたのです。
 ゆえにイエス様は死んだとしても、その精誠の基準はサタンが占領できません。そして、イエス様が霊的に復活することによって、霊的なイスラエルの基準がつくられたのです。

 イエス様は、「わが神、わが神。なぜわたしをお見捨てになったのですか」という立場に出ていき、自分の体が引き裂かれて、自らの魂がずたずたに引き裂かれる犠牲の道、死亡の峠を越えていきながらも、お父様を離さずに最後まで忠孝の道理と忠臣の道理を誓うにおいて、サタン世界の誰にも負けない立場で静かに死の道を迎えていったのです。
 イエス様が、その場において、サタン世界で死んでいったどのような人よりも上に立つことができたその条件とは何でしょうか。怨讐に対して福を祈ったという事実、その条件を中心としてサタンがそれ以上は侵犯できない防波堤として決定されたというのです。
 神様をイエス様を愛して、イエス様は天を愛したので、愛を中心として復活の権限を発揮して復活したのです。

 イエス様は、幼いころから神様が喜ぶことができる立場でイスラエル民族の慕心を受けなければならず、神様の前に召命されたイスラエル民族は、忠孝の道理を果たす立場でした。しかし、イスラエル民族がそのような使命を果たせないので、腹中教を中心としてイスラエルの勝利的立場を再現し、そのことを再び推進させたのです。

 本来、ヨセフとマリアが、イエス様は神様が送られた真の息子であり、神様の王子であり、また万民のメシヤだということを知ったなら、彼が生まれたその日から、神様の王子として侍っていかなければならないのです。
 毎日のようにイエス様に敬拝しなければなりません。王の王であり、永久に全天宙を支配することができる天の主権者として来られた方であるがゆえに、イエス様が生まれたその日から、ヨセフとマリヤは、彼に最善を尽くし、忠孝の道理を果たして侍らなければならなかったというのです。
 人間的に見れば、自分の息子に忠孝の道理を果たさなければならないという法がどこにありますか。しかし、天法ではそのようにしなければならないのです。

 イエス様は、どうして父母、すなわち神様に侍ることができる天の法度を親しく教えてあげることができなかったのでしょうか。本来、堕落していなければ、神様がアダムの父母になっていたはずですが、堕落によって父子の因縁が途絶えたのです。それで、父子の因縁として、忠孝の道理を果たすことができなかったことを私たちが蕩減復帰するために、忠の道理と孝の道理の代わりをするのです。
 それまでは、神様が父母の位置で教えてあげることはできないというのです。