第2章 家庭を中心として愛の法度 : 六 祖父母と孫との関係 :

 考えてごらんなさい。孫がですね。、よちよちと歩き回る孫が家に入ってきて「ああ、おじいちゃん、おばあちゃん、どこへ行った」といえば、どうですか。お母さんとお父さんも座っていて、自分の兄弟たちもたくさんいますが、入ってくるやいなや、「おじいちゃん、おばあちゃん、どこ行った!」というなら、それがふさわしいですか、変ですか。それはどれほど変でしょうか。言葉もぞんざいに使って。「おじいちゃん、どこ行った」
 では、その言葉を考えてごらんなさい。今、八十歳を越えたおじいさんとおばあさんにはこれはほんの子供が大胆にふんぞり返って、突っ立って、お父さんとお母さんも全部いるのに、お兄さんとお姉さんが自分よりも立派なのに、そこにふんぞり返って、突っ立って、「おじいちゃん、おばあちゃん、どこ行った!」といっても、全部、目をまん丸くして「おい、こいつめ! この子は! 何だ」と、叱る人はいません。
 それはなぜでしょうか。ふつうならば、ほかの所からほかの人たちが来て、そういったなら、「うちのおじいさんに向かって、おまえ、そんなことがいえるか」と大騒ぎになるはずですが、孫がふんぞり返って、突っ立って、そのような話をすれば、喜びます。「そうか、そうか、おじいさんに会いたいのか」となるのです。
 それが何かというと、おじいさんに対して、「どこに行った」というのが、餅をくれということですか、ご飯をくれというのですか。その内容が問題です。内容が何かというと、おじいさんに会いたいということです。そうなれば、会いたがるのはいいことですか、悪いことですか。それはいいことだというのです。

 天下が会いたがり、また会いたいと同時にその次には、どうしたいのですか。じっと四方を見渡しても、お兄さんをじっと見て、お姉さんをじっと見ても、今、どこかの膝のところに行って少し座りたいのに、こちらを眺めても、あちらを眺めても、お兄さんの顔色をじっとうかがって、行って三分だけ座れば、追い払われるのが分かり切っているのです。また、お父さんもよく見ると、忙しくて疲れたお父さん…。それは皆、経験を通して知っているのです。行って、お知りを載せて十分だけ座っていても、嫌がります。それは、皆、測定感覚が早いのです。さっと見て…。
 けれども、おじいさんは、おじいさんをよく見れば、おじいさんのように年を取った人たちは、膝に座れば、一時間座っても、じっとしており、二時間座ってもじっとしているのです。そのように座っても、家族の中で一番自分をたくさん抱いてくれるのです。抱いてくれて、「この子はどうで、この子は耳がどうで」といいながら、触ってくれるのは嫌ではありません。整えてくれ、なぜてくれ、触ってくれ、あるときは、触らないところがないくらい、すべて触ってみますが、それでも嫌ではありません。それがどれほどすてきですか。どれほど素晴らしいかというのです。それは木の一番てっぺんが根と一つになろうという、その話と通じるのです。
 では、中心の根と中心の芽とが愛し合うようになれば、どのようなことが起こるでしょうか。そこにつながったすべての根とすべての枝は、愛し合うまいとしても、愛し合わざるをえなくなるのです。それを考えてみなさい。中心の芽と中心の根とが愛し合うようになれば、それが何かというと、全体を抱くことのできる因縁だというのです。このように見るとき、根の中で中心の根が家庭の中でだれですか。孫、長男の孫だというのです。それゆえ、おじいさんはいつも目を開けて長男の長男を見上げ、また見下ろすのです。これを知らなければなりません。