第2章 家庭を中心として愛の法度 : 三 父母はまさに愛の起源 :

 孤児は父母と因縁を結ぶことができません。人はだれでも愛を受けたく思います。その愛の理想型は父母です。そのような父母の愛を受けたくとも受けられず、また、父母に対して愛したくとも愛することのできない人は不幸せな人だということができます。
 いくら孤児よりも百倍、千倍醜い人だとしても、父母に侍り、孝行して暮らすことのできる人は、孤児たちに威張ることができるのです。「おまえに父母がいるのか。いないだろう。顔が美しくて何になる。父母もいないのに」と威張るのです。また、「私は醜く、病身だが、おまえは母親もなく、父親もいないではないか」と、いいうるのです。
 父母とはいったい何でしょうか。力も頭も世界的なチャンピオンである息子が、たんこぶのような存在である父母を、指一つで片づけ、勝手にやろうとすればできるはずなのに、どうして勝手にできないのでしょうか。それを知らなければなりません。力でも一番であり、頭でも一番なので、力で「こいつらめ」とやりこめることもできるし、頭を使ってもそのようにすることができるのに、そうすることができないのです。
 愛の起源がどこでしょうか。愛がどこから出てくるのでしょうか。自分からでしょうか。違います。それは父母から出てくるのです。愛の起源は自分ではなく、父母にあるからです。原因を知らない結果はありえないのです。愛を中心として見るとき、主人が自分ではないことを知っているので、そのようにできないのです。ですから、父母の前に来ては、「はい、お母さん、お父さん、そうです」というのです。
 父母が「おまえがいくら名高く、力が強いといっても、お母さんとお父さんの前では道理にはずれることをしてはだめだ」といえば、「はい、はい、はい、お母さん、お父さん、そうです」というのです。なぜでしょうか。愛があるからです。父母は主体であり、子供は対象だからです。
 主体は対象のために生き、対象は主体に従わなければならないのが天理原則です。これを破綻させたなら、その家はすっかり無価値な結果をもたらすのです。いくら無知な人間であっても、天性をもって生まれているために、天理原則というものが分かるのです。ですから、いくら外的に力が強いチャンピオンだとしても、父母の前では頭を下げなければならないのです。

 人の世は力の争いが続いており、知識の争いが続いています。まだ愛の争いができる時にはなっていないのです。ですから、宗教指導者たちは末世になれば、自分の時が来ると言うのです。その末世になれば、こぶしの力や知識の力の時代はすべて過ぎ去り、愛の力だけが残るのです。そのような最後の世界的な覇権時代、その時がまさしく終わりの日になるのです。
 力の強いお兄さんが家に帰ってきて、大将の役ができるでしょうか。できません。いくら力の強いお兄さんでも家に帰ってくれば、大将の役ができません。リングでは世界的なチャンピオンになることができても、家に帰ってきては、大将になれないのです。また、博士の学位を数百個ももったお兄さんでも、家に帰ってきて、大将の役ができるでしょうか。できません。なぜ、できないのでしょうか。父母がいるからです。