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第11章 家庭は永遠の幸福の土台 : 二 家庭は永遠なる幸福の基盤 : |
人間の生活で、ある人を幸せな人だというとき、何を基準として幸福といいますか。外的にある能力、権勢、権威を備えたなら、幸福な人だということができますか。そういうことはあり得ません。また、他人がうらやましいくらいお金があったとすれば幸福な人ですか。そうではありません。また世界的な知識をもっていて、世界を思うがままにできる位置にいるとして、彼が幸福な人になることができますか。決してそれだけで人が幸福なのではありません。
ある人がこれくらいなら天上天下にうらやむものはないといって、幸福をうたうとしても、そのような外的なものは幸福になり得ません。幸福を見いだす条件にはなり得ますが、幸福それ自体にはなり得ないのです。それでは何が決定すれば、幸福を感じることができるでしょうか。愛する父母がいて、夫婦がいて、子女がいなければなりません。これはどこの誰も否定できません。ここにその一つだけでもなければそこに該当する比例的な悲しみを感じるでしょうし、比例的な不満がその胸の中に残されざるを得ないでしょう。
この地のすべての人間が、幸福の基盤は家庭だと一般的に感じています。家庭には父母がいなければなりません。世の中では父母がいない子供は孤児と呼ばれ、その孤児はかわいそうな人として扱われます。家庭には父母がいると同時に夫婦の因縁があります。父母がいないのもかわいそうなことですが、夫婦で片方がいないのもかわいそうなことです。どんなに愛おしく暮らした夫婦だといっても、愛する配偶者を失うときは、この上なく悲惨で不幸になるのです。それだけでなく、夫婦が子女を身ごもることができなければ、それもやはり不幸でないわけがありません。
家庭には必ず父母がいて、妻子がいなければなりません。そうしてこそ、その家庭が幸福の土台となるのです。神様が人類を探し求めてきた目的も、神様ご自身の幸福を模索するためであることに間違いありません。それゆえ、神様ご自身が幸福の土台を探し求めるには、人間を離れた場では、そのような理想があり得ないというのです。
人間とともに関係を結んでこそ、その一致点をもたらすことができるのです。私たちが家庭で、情緒的なすべての内容を備えた立場で幸福を感じるのと同様に、神様もやはりそのような立場で幸福を感じられるのです。
幸福はどこから来るのでしょうか。家庭から来るのです。家庭の幸福は、情緒的に問題があれば成され得ません。また心情、愛がなくても、成され得ないのです。父母の前に子女がいないときには、その父母の幸福はあり得ません。子女に父母がいなくても、子女の喜びはないのです。あるいはある男性がいれば、相対たる女性がいなくてはならないでしょう。女性も同様です。
ある夫婦がいれば、その夫婦の願いは、彼らの主体と対象の関係をおいて、より高い次元で愛を維持することです。そして、夫婦の前には必ず子女がいなければなりません。そうしてこそ一つの家庭が築かれますが、上には父母がいて、下には子女がいなければならず、また夫婦がいなければなりません。このようにして、一つの家庭は縦と横に一つとならなければならないのです。それでは、誰を中心として一つとなるのでしょうか。
人間だけでは不可能です。人間だけでは、より高い価値を追求することができないので、絶対的な愛の主体がいるなら、その主体を中心として、父母は一つとなることを願うでしょう。そこで、夫婦と子女がその主体を中心として愛で一体となった場が、幸福の場であり、望みの場となるでしょう。すべてのことを一つに帰結させ、より価値的で、刺激的な面で統括させなければなりませんが、それは、私たち人間の愛だけではいけないのであり、絶対的な立場でこそ可能なのです。