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第9章 真なる子女教育 : 五 愛の鞭 : |
ヨハネの黙示録を見ると「冷たいか熱いかであってほしい」、中途半端ではいけないとあります。愛の世界で中途半端な態度はいけないのです。愛の心をもてば鞭打ってもいいというのです。子供を育てるとき、愛を与えたのにその心を忘れてしまった時は冷たく対すべき時もあります。子供が間違った時、皆さんが叱ってあげなければ分別力を失います。先生がよく見えても一方では厳しいことを知らなければなりません。悪に対しては無慈悲です。しかし善に対しては何千度の溶鉱炉のように熱いのです。
最近学校で先生が学生をたたいたという理由で刑務所に行ったという話を聞いたとき、「アメリカはもうだめだな」と思いました。自ら進んで「たたいてでも、善なる方向に導いてください」と言わなければなりません。韓国の諺に「憎い人にはご飯をもっと上げて、かわいい人には鞭を上げなさい」という言葉があります。正しい伝統を受け継いでいくためには仕方がありません。
父母の鞭が痛いのを忘れてその愛の前に涙を流すことのできる人にならなければなりません。人は近ければ近いほど賞金をあげるのではなく、「こら、お前どうしてそうしたんだ?」とかえって懲らしめるのです。隣近所の子なら間違っても知らないふりをするでしょうが、自分の子供なら「ふくらはぎを出しなさい」と言ってたたきながら「お前、いいことをしたのか、悪いことをしたのか。」と言います。それはたたくことよりももっと多く思ってあげるからです。しかし思いやりよりも多くたたけば、それは罪です。自分が思ってあげるよりも、もっとたたけば怨讐になります。怨讐の中でも大きな怨讐になるというのです。
愛するとしてもこん棒を持った以上の愛をもってたたかなければ、すべて台無しになります。しかし、それ以上の愛をもってたたくなら大丈夫です。すなわち、十くらい愛して五くらい鞭打てば五くらいの愛が残っているので有り難く思うというのです。
子供が受け入れなくても子供を悔い改めさせるためには、昔愛したその愛よりももっと大きな愛をもって現れ、愛するようになればその不良のような子供でも悔い改めて帰ることができます。しかし子供に対して自分が育ててきた功労を自慢しながら子供を三回でもとがめれば、その子供はふろしきを包むのです。しかしその子供に対して骨髄が溶けるほど涙を流し、もっと大きな愛をもって愛するようになるとき、その子供は帰ってくるのです。もっと大きな愛は小さい愛をすべて消化・統合することのできる主動性があるからです。
この世でも子供がきついからといって「勉強するな」と言う父母は本当に子供を愛する父母ではないというのです。鞭打ちながらも、「寝ないで勉強しなさい」と言わなければなりません。なぜそうなのですか。今よくなろうというのではなく、未来によくなろうというのです。父母は子供の未来に大きな夢をかけてそうするのです。
子女を生んで育てるためには真の愛で生んで育てなければなりません。そうして家庭が一つになり、家庭を中心として国を愛せば、彼を愛国者だといいます。ですから父母は子供の成長を見守りながら教育し、正しく成長しなさいと「愛の鞭」を加えたりもします。間違ったという理由で父母に叱られたりたたかれたりしたといって不満をもったり抗議してはいけません。それを教訓として密かに自重しながら反省し、奮闘努力して間違った点を直していかなければなりません。そのような人は正しく成長し神様がいらっしゃる中心に接近して行くことができるのです。