第9章 真なる子女教育 : 四 父母は友達の中の友達、先生の中の先生 :

 愛というものはどこから来るのでしょうか。愛は自分から来るものではありません。愛とは相手から来るものです。相手がいなくなれば愛も来ることができません。私たち人間を中心として見れば男性の前の女性も相対的であり、また父母の前の子女も相対的です。愛というものは相手なくしては成されないのです。これを「三対象の愛」といいます。
 三対象の愛を体得できない者は完全な神様の愛を体験したという立場に立つことができません。「神様がアダムとエバを創造して喜ばれたように、私も息子・娘を産んで、それくらい喜ぼう」これが統一教会の原理の教えです。神様がアダムとエバを造られて、「これから世界を主管するのだ。世界の中心家庭になるのだ。早く大きくなれ、早く大きくなれ」と言いながら希望をもって保護育成する中で、喜びと満足を感じながら彼らが大きくなって結婚する日を願われたのが神様の願いです。
 これと同じように、お父さんとお母さんは息子・娘をよく育てて素晴らしい相対を選び、いい夫婦の縁を結んであげなければならないというのです。いい夫婦の縁を結んであげれば、その家は栄えるのです。
 神様と一つになって「神様がアダムとエバを造られて愛されたように私たちも神様のその愛を見習って息子・娘を愛さなければならない」と言ってどこにでも連れて回りたがり、いつでも抱いて歩きたがり、仕事をする時も連れて行きたがり、ご飯を食べる時も一緒に食べたがればそのようなお父さんとお母さんを息子・娘が好むのです。友達の中の友達とは誰でしょうか。近所のもじゃもじゃ頭の若者が自分の息子・娘の友達ではありません。
 友達の中の友達は誰かといえば、まさにお父さんとお母さんです。そうならなければなりません。さらには、友達よりももっと好きな父母にならなければなりません。そのように考えなければなりません。ですから父母は友達の中の友達であり、先生の中の先生にならなければなりません。
 父母が「こらっ、お前、そのようにしたらだめだ」と言ったり、先生が「こらっ、こいつ、やらなかったらふくらはぎをたたくぞ。そのようにしたらだめだ」と言ったりしながら教育してはいけません。愛の教育をしなければなりません。「こら、お前それでいいのか。」と言えば「そうだ、ぼくがこうしたらお父さんとお母さんが悲しがるからいけないや」と言うことができるように教育しなければなりません。
 ですから父母は、子供の友達の中の友達であり、先生の中の先生にならなければなりません。エデンの園にいたアダムとエバに友達がいたでしょうか。アダムに友達がいたとするならば、エバしかいませんでした。その次には神様しかいません。天使長とも友達になることは願われませんでした。天使長は僕です。それなのに間違って友達になって滅びたのです。ですから父母は先生の中の先生であり、友達の中の友達であり、愛の中の愛にならなければなりません。
 愛は神様から始まります。ですから結局、相対の愛も誰によるものかといえば父母によるものです。ですから父母が「おい、お前たちが愛し合うのはお前たちによるのではなく父母の恩徳によるものだ」と言う時子女たちは「うちのお父さんとお母さんが私をこのように育てて、このようにな相対を得てくれなかったら大変なことになるところだった」と、こうならなければいけません。
 ですから恋愛結婚は落第だというのです。その愛の教育は誰から受けなければならないのでしょうか。父母からです。お父さんとお母さんが一つになって鳩のようにクゥクゥクゥと愛し合うのを見てそれを見習わなければなりません。「ああ、うちのお父さんとお母さんがあおのように愛し合うのを見ると、自分一人では寂しい。私もうちのお父さんとお母さんのようにクゥクゥクゥと愛することのできるそのような相対が必要だ」このようにならなければならないし、父母はそのようになるように教えなければなりません。
 そのようになればその息子・娘たちがお父さんとお母さんがしてきたように繰り返すので世界は善なる世界になるのであり、人類歴史は善なる歴史になるのです。統一教会でこれをしようというのです。