第8章 真なる父母の愛 : 四 すべてを投入する父母の愛 :

 愛は一人では成されません。生命が投入されずしては愛が成り立たないのです。親子関係の愛を見てみてもそこには生命の因縁が宿っているのです。このように生命の因縁が残っている限り、声明の因縁の中で希望をもっている限り、そこには必ず愛の因縁が残るのです。生命の因縁を離れては愛の関係を結ぶことができないのです。ですから愛には必ず生命の因縁が投入されなければなりません。また生命をどれほど投入して愛するかによって、より価値を感じるか感じないかという問題が決定されるのです。

 例えば、子供に対する父母の愛はただ単純に生活的な因縁だけを通じて愛する愛ではなく、骨から湧き出る愛なのです。忘れようにも忘れられず、切ろうにも切れない愛の心を父母はもっているのです。それで生命の余力が残っている限り父母は子供を愛するのです。子供と生命の因縁が結ばれているということを感じる時、父母は子供を愛する心が自然に湧き出るのです。
 あの子は私の息子だから愛するという意識的な心が先立って愛するのではなく、その心よりも、その因縁よりも先立った自分の生命力が子供と連結されているので愛さざるを得ないのです。このようなことを私たちは家庭生活でよく感じているのです。

 それでは神様はどのようなお方かという時、千年万年与えてもまた与えたいそのような心を絶えずもっていらっしゃるお方です。そのようなお方なので私たちが神様を求めるのであって、与えてから「ああ、これはいくらいくらだ」と言われる商売人の神様なら、そのような神様は必要ありません。万民はなぜ神様が好きで、ついて行かなければならないのでしょうか。
 神様はなぜ愛さなければならないのかというと、神様は万民のためにすべてのものを下さり、また下さりながらも恥ずかしがり、「今はこれしかできないが、もう少し待ちなさい。何百倍何千倍もっといいっものを上げるから…」とおっしゃりながらきょう現在、下さったことで満足するのではなく与えられながら未来にもっといいものを上げると約束され、与えることのできる心の余裕をもっていらっしゃるお方だからです。
 そのような方と共にいればたとえ食べられず、貧しくても、幸福だというのです。食べられない立場に立つならば、未来の希望となる刺激が現実圏内に衝撃的に感じられるのです。何の話かといえばかえって新しい決心ができるというのです。与えながらも恥ずかしがる立場、そのような父母をもった子供が「お母さん」と言って抱きつくようになれば、体だけ抱きつくでしょうか。どれほど有り難いですか。
 その場は未来のために互いに慰労の涙を流すことのできる場です。絶望が共にあるのではなく明日の希望を現在の刺激として感じ、決意し合ってぶつかり合い、激励することのできる爆発的な場がまさしくそのような場です。
 ですからそこで現れる現象は悲惨なものではありません。未来に対する刺激を引き込み現実圏内で価値をたたえることのできる場は、そのような愛の圏内においてのみ成されるのです。ですから愛の圏内に生きる人は不幸がないとという結論が出ます。

 父母は愛する子供に対してすべてを投入しようとします。神様と同じだというのです。それは何を物語るのでしょうか。神様は神様のために投入するのではありません。自分のために存在するのではなく、相手のために存在しようとする、相手のために生きる神様の立場に立とうということです。
 神様が神様のために存在しようとすれば、それは真の愛ではありません。自分をすべて子供に投入し、その子供と共にいようとするところに愛が、生命が、希望が成されるのです。