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第8章 真なる父母の愛 : 一 父母の限りない愛の心 : |
子供を産んで育ててみた親たちは分かるでしょう。愛している大切な息子・娘を通じて恵みを受けたいし、幸福も感じたいのです。また、うれしいこと、恵みを受けることがあればその息子・娘に永遠に残してあげたいでしょう。
そのような希望の心を抱いてその息子・娘がまっすぐに育ち万国から崇められ万世にたたえられる息子・娘になることを堕落した人間も願っています。夜も昼もその息子・娘がけがをしないかと保護し、切ない心情でもどかしがるのが父母の心です。堕落した父母の心でさえもそうだというのです。
胸に抱き、乳を飲ませて育てる母親の切ない心、子供が大便をし、おしっこを漏らしてにおいがしても愛でその環境を忘れることができる父母の心です。堕落した父母が子供を思う心がそうであるならば、ましてや愛の主体であられる神様が本然の心情を通じてアダムとエバを愛されたかったそのお心がどれほど切なかったでしょうか。
皆さん一度考えてみてください。皆さんが子供を抱いて育てるとき子守歌を歌ってあげ、独り言で話しかけ、立派になることを願うその心は父母ならば誰でももっていることでしょう。いくら甲斐性がなく、足りない父母でもその子供に欠陥があれば、父母の心はその胸が涙でずぶ濡れになるほど、この上ない苦痛を味わうのであり、これが解かれればその苦痛に比例して喜びが伴うのです。堕落した父母の心でもそうなのですから神様のご心情はいかばかりでしょうか。
父母は息子が罪を犯して牢獄へ行けば「あの野郎よく行った」と言うのではなく、その子を許し、涙を流して愛そうとします。それが父母の愛です。それで父母の愛が貴いのです。もしもその息子が死刑囚になって死ぬ時刻となれば、息子の死刑執行の時をお母さんが知っていれば、通哭するでしょう。
この世のすべての法をみな変えてしまうことがあったとしても、息子を救うことのできる道が一つでもあるならばどのような冒険でも生命を懸けてやるのです。そのような変わらない愛をもっているので、父母の愛は貴いのです。自分体を打ち、自分の体を失ってでも自分を犠牲にしながら子供のためには死んでもかまわないというのが父母の心情です。
子供を愛する父母は子供を愛するとき、「私がお前に何日にゴム靴を買ってあげ、服を買ってあげ、お前のために血と汗を流したんだ。その価値は何千何百何十銭だ」と言って帳簿に付けますか。
父母が子供を愛するのに、この世の王宮の王子・王女以上にしてあげたいのですが、それ以上してあげたい気持ちを感じる場で、「私が精誠を尽くしてもこれだけしかできなくてすまない」と言うのです。「もっとよくしてあげたい」という気持ちを父母はもっているのです。
それで父母の愛を好むのです。皆さん、それを知らなければなりません。与えても不足を感じ、愛しても愛し足りないことがないかといってももっと愛したい心、与えてからも物足りず、やりきれない思い。このようなものがあるので、これは永遠の愛と通じ、本質に属することができるのです。それが愛の出発の伝統的な動機です。
父母は子供に対して自分の一番いいものを全部あげたいのです。それが父母の心です。これは誰に似てそうなのかといえば神様に似てそうなのです。それでは神様はどのようなお方でしょうか。子供となる人間が本当に現れれば彼には自分よりもっと貴いものをあげようとするお方が神様なのです。