第7章 真なる夫婦の愛 : 六 夫婦の愛の発展過程 :

 男性と女性が神様を仲保として出会うとき、どのように愛の表現をするでしょうか。愛の発展過程を見れば、最初が口であり、二番目が胸であり、三番目が生殖器です。女性が初めて男性に出会って愛し始める前に、恥ずかしさを感じて隠すのは口であるので、手で口を覆うのです。
 愛が口付けから始まるからです。愛が次第に成熟すれば、その結果として息子・娘が生まれるようになるのです。女性において生殖器は、愛の聖所ですが、その門を開けることのできるかぎは、夫だけがもっているのです。
 夫が妻の愛の聖所を開けることのできるかぎを二つやそれ以上もっているなら、その夫はサタンです。また妻の聖所が開くのは、夫がもっているかぎだけでなければならないにもかかわらず、どんなかぎでも開くならば、それもまたサタンなのです。
 夫がもった愛のかぎが妻の聖所を開けて入れば、そこから世の中で最も貴く価値のある息子・娘が誕生するようになるのです。その息子・娘の価値は、この世の何ものとも取り換えることのできない愛の結晶なのです。息子・娘を通して、神様が人類の先祖であるアダムとエバを創造された心情を体得するようになるのです。だから父母は、息子・娘を見ながら「こう見てもわが愛する人、ああ見てもわが愛する人…(パンソリ「春香伝」)と歌い、喜ぶようになるのです。
 愛で生まれた赤ん坊が、何をしても憎くなくてひたすらかわいいのは、その赤ん坊が自分の血と肉で、そして愛でつくられた分身体であるからです。小便をし、大便をし、鼻を垂らしても、ただひたすらかわいく愛らしいのです。それらの中に愛が染み込んでいるからです。

 夫と妻の関係でも、愛の強力な力で結ばれたら、相対が何をしようと、どのようなことをしても、うれしく、愛らしく感じなければならないのです。夫の体から出るにおいが嫌だといったり、妻の身振りが嫌だと考えたり、感じたりするのは、二人の間に完全な愛が築かれていないからです。そのような夫婦は、目的のために利害関係で結ばれたからです。
 結婚後の家庭生活は、神様を真ん中に奉り、その神様がともに喜ばれる姿を見ながら、互いに愛し合うことのできる関係になってこそ、本当の喜びを感じることができます。男女が結婚して互いに愛し合うことは、本来恥ずかしがることではありません。これは最も尊厳なことであり、神聖で美しいことであるにもかかわらず、神様の戒律を犯したために、愛の歴史は、罪悪によって恥ずかしい方向に流れてきました。
 エデンの園で裸になって踊りを踊るのを誰が見たでしょうか。ですから人がいない所では、そのようなこともできるのです。部屋で夫婦が裸で踊るといって、それが心配することでしょうか。しかし人が見る前でそうであるなら、それは社会から非難を受けて当たり前なのです。夫婦だけでこそ、裸になって踊るのみでなく、何かをしたとしても誰が干渉するでしょうか。
 ですから祝福家庭も、二人で裸になって踊りを踊りなさい。夫婦同士なのに何のかかわりがありますか。この世に男性と女性がいくら多いといっても、私たち二人しかいないという心をもたなければなりません。精誠を尽くすその女性しかいないという思いの中に、精誠を尽くすのが原理です。

 真実の幸福といえば、相対者とともに愛に酔って笑い、歌い、ささやくところで見つけることができます。愛する恋人からささやきの言葉を聞くことのできる人は、幸福な人であるといえます。耳元で愛をささやくことは、まさに夢を見るかのように幸福感を感じることができるからです。