第7章 真なる夫婦の愛 : 五 会えば会うほどいっそう会いたいのが夫婦の愛 :

 男性が幸福な時はいつであり、女性が幸福な時はいつだと皆さんは思いますか。二人が相対を成して愛を授け受ける時が、幸福な時だということができます。男性が女性に対するとき、こぶしを振り回したり物理的な力を動員するなら、彼ら夫婦は決して幸福であるとはいえないでしょう。
 男性が女性に対するとき、力で胸に抱いて保護しながら愛するとき、女性は本当の幸福を感じることができるでしょう。男性と女性の間の愛において、力だけでも駄目であり、心で愛するといって、それだけでいいのでもありません。
 愛する心を、力をもって確認してあげたとき、女性は本当の幸福感を味わうことができるでしょうし、また、女性が男性に対して心と体で愛を返すとき、本当に幸福な夫婦となるでしょう。

 人はいつも刺激が必要です。幸福は刺激なしには築かれません。刺激がなければならないというのです。いつも食べる御飯も、食べるときごとにおなかがすいていてこそ、新鮮であるように、夫婦間の愛も同様に、いつも新しくなければならないというのです。
 妻と夫が互いに見つめ合えば見つめ合うほど、もっと見つめたいし、一日中共にいたくなければなりません。愛は互いに恋しがるとき価値があります。口があれば口を広げ、目があれば目をあけて「愛を下さい」と言えば、愛を与える人も気分が良いでしょう。ぼーっとしていると、愛が来ても逃げていくということを知らなければなりません。
 愛する人が真剣でなく、消極的に出ると、どれだけ気分が悪いでしょうか。皆さんは愛する者同士、共にいることがいいですか、離れているのがいいでしょうか。近くにいればいるほどいいのです。なぜでしょうか。すべてのことが一遍に作用するのでいいというのです。
 一番いいことが何でしょうか。食べることですか。あなかがすいた時、ご飯を見てよかったといって食べますが、そのようなことは一時的だというのです。飽きるほど食べたのに、また食べ物をあげれば嫌になります。けれども、自分が愛している人に対しては、そうではないというのです。
 愛する人を「私は忘れてしまいたい。嫌い」と言う人がいますか。見ても見ても限りなく見たくなるのです。そうでしょう。見てもまた見たいし、また見ても見たくなるのです。だから互いが、お前が前に立ち、私が後ろに立つといいながら、車輪のように回るというのです。ここから統一が始まるのです。
 愛を知った妻は、夫の胸に頭をうずめて昼寝を楽しみたいという衝動が起こったりもします。それは幸福に酔って、、ふらふらになるからなのです。結婚する前には、恐ろしくて気持ち悪く見えた男性が、結婚して夫となってからは、会いたくて一日に何度も見なければだめなほど、心境の変化を引き起こすのが女性です。だから、電話をして、昼食の時間にちょっと家に立ち寄りなさいと呼び出したりもします。
 愛を知った男性も、同様です。暇さえあれば、妻のひざをまくらにして、眠りたがります。だから昼食の時間やコーヒーを飲む時間はもちろん、時間があれば家に飛んできたりします。また、結婚する前には「そのようなことは女性がやることだろう、男がすることか」と言いながらしなかったことも、妻が願いさえすれば、ためらいなくしたりします。このようなことが、愛を知った男性と女性においてよく起こる変化だといえます。
 神様は人間をお造りになり、祝福してくださるとき、夫婦が幸福になれるようにしてくださいました。そのような祝福の門を開いて入った夫婦は、二人でささやくのに余念がないというのです。「私はあなたに会うために、このように待ってきました。私の生命はあなたを通してその価値を花咲かせるでしょう。あなたを愛するために生まれ、また、きょうのために待ってきました」などなど、互いをたたえ合う甘い話だけだというのです。
 この世に愛の蜜語ほど甘ったるいものは存在しないでしょう。夫婦が寝床に入っても、ささやく蜜語はこの世のすべての疲労と憎しみを溶かす清涼剤となるのです。