第5章 創造本然の男女の愛 : 四 愛は相対から来るもの :

 愛は一人では成されないのです。愛はどこから出てくるのですか。「私」から出てくるのではなく相対から来るのです。相対から出てくるので、「私」が頭を低くして相対に尽くさなければならないのです。「為に生きる」という天理が、ここから生まれるのです。極めて高貴なものが「私」のところに訪れるのに、それを受け入れようとするなら、それを尊く思い、敬わなければならないという「為に生きる哲学」を確立しなければならないのです。
 人には愛があります。しかし愛というのは、「私」一人では現れません。男性が一人いるときには、愛は現れません。男性の前に相対的な女性が現れてこそ、愛が生じてくるのです。このように相対が現れて初めて、愛が生じるのです。
 父母の愛が素晴らしく、夫婦の愛が素晴らしいというとき、本当の愛は自分を中心とした愛ではありません。愛というのは「私」から始まるのではなく、相対から始まるのです。皆さんはこれを知らなければなりません。夫から、妻から愛が生じるのであり、息子から、兄弟から愛が始まるのです。愛は自分一人から始まるのではなく、相対から始まるのです。それゆえ、愛の主人は誰でしょうか。相対が愛の主人となるのです。

 愛はどこから出てくるのでしょうか。相対から現れるのです。相対が醜くて憎ければ愛も後退しようとするし、相対がきれいで好ましければ、愛の作用もその分早くなります。相対の言語、美、香り、味など、相対の要素によって愛の作用が決定されるようになるのです。
 愛の根拠地はどこでしょうか。愛の根拠地は「私」ではありません。愛という名詞は相対的観念からいうものです。相対がいなければ、いくら美男子であっても一人では愛することができないので、だめです。愛の根拠地は「私」ではありません。愛は「私」からだというのは、サタンが今まで利用してきた言葉です。愛の根拠地は「私」ではありません。愛の根拠地が自分だと考えますが、これを残らず改めなくては、歴史を変えることはできません。今まで夫人は夫人なりに自分が中心であり、夫は夫なりに自分が中心だから私のために尽くしなさいというので、破綻が生じたのです。
 愛の根拠地は「私」にあるのではなく、相対にあるので、その愛を「私」が見つけるためには、その愛の前で犠牲にならなければなりません。愛は必ず犠牲を要求するのです。また、愛は克服を必要とするのです。
 このような観点から見るときに、今日サタン世界を克服できる内容をもっているものは、この天地間において、ほかでは探すことができません。神様を中心とした愛の原則によってのみ見つけることができるので、神様は愛をしっかりつかんでいるのです。世の中で、慈悲という言葉も、愛がなくては出てこないのです。仁という言葉も、二人がいなくては出てこないのです。慈悲や仁という言葉も全部残らず相対的観念からいうのです。