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第一章 神様の本体 : 四 神様は父であられる : 2.神様は一番近くにいらっしゃる方 |
真理中の最高の真理とは何でしょうか。それは父母であり、夫婦であり、子女です。それ以上はないのです。それでは真理の中心とは何でしょうか。愛です。このような原則を中心として見るとき、最高の真理の中心とは何なのでしょうか。神様は真理の本体であり、善の本体であり、愛の本体であり、生命の本体だと言うのですが、それは何を意味しますか。みな同じ言葉です。真理が成立するには愛と生命がなくてはならないのです。ですから最も核心である生命の本体、愛の本体、真理の本体は神様ですが、神様はどんな方でしょうか。私たち人間の父であると同時に母です。核心は父母です。このように見れば、神様は簡単な方であられます。
神様は白い髭が生えているでしょう。それが似合うのです。さあ、神様が髭をそっと触るとき、息子が「僕は長い髭が好きだ」と言えばその髭は長くなり、「短い髭が好きだ」と言えば短い髭になるのです。そうなるはずです。全知全能な神様なので、神様の顔は男性に対するときは粗雑で乱暴に見え、男性格が好きなアダムには男性のように見え、エバのような女性には女性が喜ぶことのできる姿を見せるのです。
神様は天地創造の以前からいたでしょうか、いなかったでしょうか。それでは神様の年は何歳でしょうか。そう、七十だと言ってもいいです。そのような人には神様は「ほほ、私は七十だ」と言うのです。五つしか知らない人が「神様何歳ですか」と言えば「ほほ、五つだ」と言うのです。それ以上知らないからです。数がどんなに多くても、その数で数えられるような神様ではありません。私たちの神様がそうだというのです。
神様も冗談が本当に好きです。ユーモアが好きです。ユーモアの大王は誰でしょうか。誰かと言うと、神様です。全知全能なのでユーモアも多いのです。笑うときもにこにこ笑い、おなかをよじりながら笑い、転げ回って笑わせることができる大王とは誰ですか。神様です。そんな大王が神様だというのです。
神様は外的に男性に似たとするならば、内的には女性に似たのです。神様は、強く、全知全能でありますが、お釈迦様のほほえみに花を添えることのできる慈悲の心もあるというのです。女性の中の女性のような心もなければなりません。そうしてこそ両面がみな生きるのです。
神様が宇宙の大主宰であり全知全能であられて、もっていないものはないくらい能力が多い方です。どんなにそうだとしても愛の因縁をもって孝子の立場に立った息子が尋ねもしないで胸をかき分けるからと言って「おい! やあ! お前、いつ見たというのか」と言いますか。いつ見たのかと言ったとしても知らないふりをして幾度も胸をかき分けて、昔、自分のお父さんの乳を触ったようにこうして……。「私は昔、うちのお父さんの乳を触ったように触りたくてそうしたのです」と言えばどうしますか。気分を悪くするでしょうか。お父さんが本当に幸福を感じるでしょう。だんだんと大きくなれば自分のもとを離れ、壁を越え、川を越え、山を越えて、消えようとしていたのが、越えていった息子が、壁を越え、門を越え、服を越え、昔のように自分の乳を触ろうとする時、お父さんは気分がいいでしょうか、悪いでしょうか。もうすぐ死にそうなおじいさんも、「早くここに来て触れ、早く!」と、気分が良くてそうするでしょう。
神様は創造主ですが、つけ足すものがどこにあり、引っ張るものがどこにありますか。大きくなろうとすれば吸収して引っ張るとか、誰かがつけ足してくれるとかしなければならないのです。自分が吸収するか、第三者の存在がもってきてつけ足してくれるかしなければなりません。ところが神様自身において、つけるものもなく引っ張るものもないのに、自体がどのように大きくなることができる概念を立てるのかというのです。これが重要な問題です。私がこれを話せば皆さんがむやみに話して困るので話さないのです。研究してみてください。宿題を出すので研究してみてください。論文を書いてみなさい。私が点数をつけてあげます。
本来、絶対者なる神様はどのように始まったのでしょうか。一度にさっと出てきて生まれたのでしょうか。それが気になりませんか。そんなことを言えば既成教会の信者たちは、「ううー、創造主は聖なる方なのに、その冒涜も普通の冒涜ではない。ばかげたことはやめなさい!」と、言うのです。神様が生まれて出てきたのでしょうか。ただそのままいたのでしょうか。気になりませんか。その問題に対するには、論理的背景を備えなければなりません。尹博士。どのように出てきましたか。物理学の博士様がそれを知らなければならないではないですか。博士様がそのように顔を隠せば恥ずかしいではないですか。統一教会員も仕方なく「自然にいらっしゃる?」と言うでしょうか。違うのです。神様も発展していかなければならないのです。そのように言えば正しいのです。
調和の無限の力をもっているのは何ですか。神様も研究したことでしょう。神様が人格的神として人と同じならば、全知全能なるその方もそれに対するとき、その中に行って安息の睡眠を取りたいのです。神様がいつも目を大きく開いて「こいつ、昼夜休まずに蕩減復帰しろ」と、このように言うことができません。神様も道理がそうではないですか。息をする道理と同じです。息を吐けば吸わなければなりません。神様も働けば、休まなければなりません。神様が働くのもすべて、休む喜びを感じようとするからなのです。神様もそのすべてのものが、相対的授受関係の因縁になっています。
神様が愛することができる相対は、私たち人間しかいません。被造物の中で、神様自身がまた別の神様を造ることはできないのです。どうしてですか。全知全能なる神様なので神様と同じ、もう一つの神様を造るだろうと、それも可能だと思いますが、神様がそのように造ればどうなりますか。同じ神様が御飯を食べるとき、一緒に御飯を食べ、手入れをするときは一緒に手入れをして、立つときは一緒に立ってついて回りながら、神様が座れば一緒に座り、このように億千万年一緒に行動するならば生きていけますか。考えてみなさい。どんなに気が遠くなるでしょうか。一日もたたないで目が回ってひっくり返ってしまいます。また、話はどうしますか。話をすれば何日話すと思いますか。三日間ですか。「あれ、あの、同じではないか! 死にそうだ」と言うでしょう。
宗教の中心とは何でしょうか。神です。神様です。もちろん神に対する名前はたくさんあります。しかし名前が問題ではありません。その神は二人になることができないのです。根源は一つなので、一つの神です。一つの神について話すとき、各国の言語が違うので一つの神を表す名詞は違いますが、その本体は一つなのです。
天と地自体も自ら存在したくて存在するようになったのではなく、必ず存在するようになった動機と根源を通じて、ある力の源泉に立脚して生まれたということを考えるとき、ここからももっと上がって必ず中心的な主体を備えて天地を動かすとか、あるいはここに創造するという力の作用体、根本の作用体がいなければならないのです。このような立場にいるその方を私たちは神様と言いますが、民族が違い、言語が違うからといって、違う表現をするその名詞が問題ではありません。いずれにせよ、この宇宙の中心がなければならないのです。その中心は全体、この存在世界の前において、存在が作用し移動するとしても、その移動するのに従って移動するのではなく、この動く相対的な世界の中心において億千万年動かない中心的な本体がなければならないのです。