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第四章 真のお父様の見た神様 : 三 拘束された神様、囹圄の神様 : 2.神様が神様の本分を果たせずにいる |
統一教会はいつまで残るのでしょうか。地球を解放し、霊界を解放し、のちに神様の愛の心情で解放するときまで統一教会は行かなければなりません。最後には人類を解放し、霊界を解放し、神様を解放しなければなりません。このような話を聞くのは初めてのことでしょう。神様が私たちを解放してくれるものと思っていたのに、私たちが神様を解放しなければならないのです。心情的には神様が拘束されているということを知らなければなりません。
愛する父母の前に親不孝者がいるとすれば、その親不孝者が父母の願う基準、解放される位置まで上がってくるのを見なければ、その父母の心情の解放圏はできないのです。同じように神様においても最高の愛の相対として造ったアダムとエバは、神様の愛の相対であると同時に縦的な面で父子の関係であり、横的な面では夫婦的な縁となるようになっていたので、彼らを中心として天地のあらゆる愛の理想を実践しようとしたのです。ところが堕落によってそのすべてを失ったのです。神様までも拘束の神様となってしまったのです。
天国を築いて生きる人でなければ天国へ行くことはできません。私が監獄に入って手錠をかけられて暮らす立場に立ったとしても、「私」を拘束することのできない愛があるのです。私が腰を曲げ、眠ることのできない立場にあるときに、夜に起きると手が光を放っていたのです。なぜ光るのでしょうか。神様が抱いてくださっているからです。それが分かったのです。ですから暗い部屋でも光を放ったのです。 私がうめき声と泣き声を聞きながら監房の隅で粛然としていると、次の日の朝には、みなはったい粉の包みを私に持ってきてくれたものです。通りを越えて「どこどこの監房の何号のところに、お前がこれを持っていかなければ、この監房全体が安らかではなく、お前の家が安らかではないので持っていってやれ」と言うのです。私の神様は愛の神様なので、このような神様を冷遇する恩知らずの統一教会の群となってはなりません。
「人間のゆえに神様が拘束を受けているのだ。私ゆえに神様が拘束されているのだ。私という一個体のために神様がサタンの讒訴を受けているのだ。私のゆえにイエス様も死んだのだ。私ゆえに聖霊が血のにじむ闘争の歴史を抱いて身もだえしてきたのだ。神様、私に力をお与えください。お父様を安息させ、解放の座に移してさしあげます」と言うことのできる、信仰に飢える者、希望に飢える者、愛に燃える者を神様が六千年間求めてこられたのです。このような事実を私たちは知らなければなりません。
神様とサタンが闘ったとすれば、止めることのできる者はいるでしょうか。そのままで闘いが終わるでしょうか。神様の前に孝子はなく、神様の前に忠臣の道理、聖人の道理、聖子の道理、聖者の道理、天国を守ることのできる主流の愛の体制がなくなったので、神様の立つ瀬がないのです。今まで囹圄の身で軟禁状態にある神様となったのです。天国は完全に廃墟となり空になっています。そのような痛みをもっているのが神様です。
では、神様の探し求めるおじいさん、おばあさんに会ったことがありますか。堕落したがゆえに、会うことができませんでした。神様の探している母、父に会ったことがありますか。神様の探している妻、夫に会ったことがありますか。神様の探している息子、娘に会ったことがありますか。この恨みをどのように解くのでしょうか。この心情の拘束の鉄条網を誰が切るのでしょうか。それは神様の愛以外にはありません。神様の本質的愛以外にはありません。
神様はあらゆる面において自由自在にできるお方であるのに、非法的な愛という条件ゆえに手をつけることができないという恨めしく悲しい神様の心、気が遠くなるほど嫌気がさすのを誰が知るでしょうか。
既成教会では「聖なる、聖なる神よ、栄光の神よ、私に恵みを下さい」と言うのですが、神様はそんな神様ではありません。悲惨な神様です。拘束された中にある神様です。良い息子を生んで解放されるべき神様であられるので、神様の運命は哀れな運命です。ですから皆さんは神様を解放してさしあげなければなりません。そうせずしては天道が正しく定められないので、この地上に理想世界は現れることができないのです。これを正すための歴史が統一教会の歴史であり、使命です。
統一教会のみ言、統一教会の内容、耳で聞く内容の中には何があるのでしょうか。心情的に拘束されている神様を解放することのできる内容をもっているのです。人間が堕落することによって神様は嘆息されたと言われています。嘆息の歴史は出発から世界的なものとなったのであり、世界的になったがゆえにパウロは「人類が嘆息し、私たちの先祖も嘆息し、全人類までもが嘆息している」と言いました。そうして神様の多くの息子、娘が現れることを願っていると言ったのです。それは嘆息圏から逃れることを、より分けていくことを願ったからです。