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第四章 真のお父様の見た神様 : 二 息子を失った衝撃、悲しみの神様 : 2.神様の歴史的に悲惨な姿 |
神様が天から見下ろしているとするならば、どれほど憤慨されるでしょうか。この万民は御自身の血統的子孫であるべきなのに、悪魔が悲惨な境地に追い込んで「あなたの子孫はこのように凄惨な立場に処している」と、神様に向かって嘲笑しています。サタンがまた「全知全能の神様なのだから、この境地をどのように収拾するのですか」と言えば、神様は沈黙を続けるしかないのです。聞いても聞こえないふりをし、においをかいでもかがないふりをし、感じながらも感じないふりをしなければならない神様の歴史的に悲惨な姿を皆さんは考えたことがありますか。
今日の既成教会で信じているように、全知全能で栄光のみ座におられる神様であるとすれば、御自身の息子、娘が死んでいくのに、み座から「ここに上がってこい。私がみ座を離れることはできない」と言うでしょうか。み座でも何でも投げ出して下りていくでしょうか。どちらでしょうか。そのままでおられるでしょうか、下りていかれるでしょうか。王冠を脱いで急いで下りていくでしょうか。どうされるか考えてみてください。それではキリスト教の信仰は正しいでしょうか、間違っているでしょうか。
神様が泣き叫びながら「私の息子よ、私の娘よ」と何万年、何十万年、何百万年も呼び続けてこられたという事実を知らなければなりません。そのような神様の前で「父よ!」と声がかすれるほど呼んだことがありますか。舌が乾き、息が詰まり、目がつぶれて開けられないほどに、切に父を呼んだことがありますか。生命の主体であるその価値を抱くために、どれほど身もだえしたでしょうか。身もだえした基準に比例して皆さんの人格の基準が測られるのです。
私たちは全知全能であられるそのお方に対することのできる何らの内容も持ち合わせていません。しかも堕落した人間として生まれた私たち、私たちの目は俗なるものです。私たちの五感の感情はすべて俗なるものです。神様に対することのできるものは一つとしてありません。一つもなく、公義の法をもっては相対することのできる内容が絶対にないのですが、愛の法をもってのみ対することができるという唯一の道があるのです。したがって皆さんが信仰生活において年を経るほどに愛の哲学をもって暮らし、愛の哲学をもってすべてのことを分別しながら生活する信仰者にならなければならないのです。そのような人は十年が過ぎ、二十年、三十年の生を経れば、自動的に神様の必要とする人になっていくのです。
神様が数千年の間復帰摂理をされながら受難の道を経てきたのは、神様が善なる心をもっていたので耐えてきたのでしょうか。神様が今まで人類歴史の数万年の間救いの摂理をしてきながらも、いまだに疲れ果てることなく続けてきた原因はどこにあるのでしょうか。全知全能であられるからですか。そうではありません。愛の道を求めてきたがゆえ、愛の息子、娘を探し求めているからです。それゆえ千年を一日のごとく受難の道を越えに越えることのできた偉大な力は愛であった。そうでしょうか。そのとおりなのです。
神様がかわいそうです。かわいそうではありませんか。全知全能の神様がどうしてかわいそうなのかと言うかもしれませんが、いくら全知全能だとしても愛する息子、娘を失った衝撃から抜け出すことができないのです。その衝撃から抜け出すための道が神様御自身にあるならば、神様は今まで六千年の歴史を経ながら苦労される必要はないのです。
人間が罪を犯したからといって「お前、なぜ罪を犯したのか」とおっしゃるばかりの神様ではありません。罪を犯した事情をよく知っていらっしゃる神様です。御自身の事情は考えずに、人間の事情を知ってくださろうとする神様です。悲しい者には悲しい事情をもって訪ねてこられ、苦痛を受けている者には苦痛の事情をもって訪ねてこられ、悔しくやるせない者には悔しくやるせない事情をもって訪ねてこられました。皆さんは神様とどれだけ事情を通じたことがありますか。神様は私たちの生活環境の中にもそのように訪ねてこられました。お前が私を裏切ったとしても、私はお前の父親だという心があったがゆえに、六千年という歳月を訪ねてこられたのです。
統一教会とは何でしょうか。神様の心情を論じています。神様を解放しようとしています。既成教会は、私たちがそのようなことを言うと言っては私たちを異端だと言います。皆さん、立派な大統領でも自分の子が今死んだとすれば、その死んだ子の前で大統領の権威をもって「子供は死んだけれども、大統領は涙を流すことはできない」と言うでしょうか。陰で鼻を打ちつけ、痛哭し、人前では顔を拭って、そうだとすれば通じますが、そうでないとすれば死んだ息子の霊が「これが父親だなんて……。父親ではなかったのだ」と言うことでしょう。死んだ霊が活動するとすれば、その父親に協助するでしょうか、反対するでしょうか。世界の大統領でも誰でも、自分の愛する子供が死んだならば涙を流さなければなりません。
人間の創造本然の特権的な価値を喪失し、堕落のうじとなってあえぐ無価値な人生を見つめる神様の内情的心情は、どれほど悲惨なことでしょうか。あの者たちは本来、私の愛と私の生命と私の血統を通して直系の子となり、天国の栄光を占めたであろうに、敗者の仮面をつけ、呻吟と苦痛と絶望の中であえぎながら命を絶つ場にいるのです。ですから、それを見つめる神様の心情はどれほど悲痛でしょうか。そのように神様が悲しみの神様であることを知らずにいました。それゆえ文総裁は神様を知ってから何日も何週間も痛哭しました。統一教会の出発には、そのような深いものがあるということを知らなければなりません。
神様の心の中に苦痛があるとは誰も知らないのです。歴史上に現れ、今ここに先生を通して現れて、その深い使命を明らかにしたので知ることができるのであり、そうでなければ分からないのです。どれほど驚くべき事実でしょうか。イエス様もそれを知らなかったし、知っていたとしても心の中にあることを語ることができなかったのです。また、宗教指導者の中で誰一人としてそのような隠された宇宙の秘密を知る人はいませんでした。歴史上初めて世界の前に先生が現れ、宇宙の秘密が明らかにされたのです。