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第四章 真のお父様の見た神様 : 二 息子を失った衝撃、悲しみの神様 : 1.永遠のひとり子を失った神様 |
純粋な本質的愛をもった神様の前に、理想的対象として描いていたアダムとエバが堕落して落ちたとき、神様の心はどれほど悲しかったことでしょうか。どんな人間よりも極めて悲しかったことでしょう。極めて、極めて悲痛だったことでしょう。その内容が深く価値的な内容であればあるほど、悲惨中の悲惨だというのです。そのような父なる神様が失った子を再び探し出すために復帰の道をたどっていかれたのです。
父母が愛する子をそれほどまでに信じているのに、子が裏切ったならば、信じていたのに比例して父母の受ける衝撃と苦衷、そして悲惨さは、言葉ではとても表現できません。また、命を懸けて互いに愛し合っていた人が裏切り、排斥し、不信するならば、やはり言葉にはできないほど悲惨です。そのような立場で身もだえしながら受ける苦痛は、経験した人でなければ分かりません。言葉だけでは理解できません。このことは世の中のことを見れば分かります。それでは神様はどうして悲惨になったのでしょうか。神様は漠然とした神様ではなく、具体的な神様です。私たち人間とは最高の関係をもった神様です。神様が喜ぶことがあったとすれば、それは人間と共に喜びで出発し、終わりのない永遠に向かって進み続けることのできる出発の起点をもつことです。ところがその出発の起点を人間ゆえに失いました。それがアダムとエバの堕落です。
この世でも、父母が還暦を過ぎてから生まれた七代続きの一人息子が死ぬことを考えれば、絶望中の絶望だといえます。若ければまた生むこともできますが、年を取ってから生まれた七代続きの一人息子が死んだとすれば、七代圏を継承しようとしていた先祖たちの心はいかばかりでしょうか。先祖たちは自分の子孫、自分の血統を通して世界にまたとない万福を受けたいのです。ですから子が死んだとすれば父母は後を追って死にたいのです。アダムは七代続きの一人息子どころか、永遠の一人息子です。一人しかいないアダムをして家庭を築かせ、創造の大業を果たした立場に立たせようとしたのに、そのアダムが死んだのですから神様の心はいかばかりであったでしょうか。このように、よじれたのですからどうしたらいいのでしょうか。神様はアダムとエバの堕落によって六千年間、衝撃から抜け出せずにいらっしゃいます。
元来、創造原則から見ると、愛の一体理想圏内に入れば、永遠な所有主が、愛を中心とした主体者が中心となるのです。ところが神様がそのような中心となるべきであったのに、サタンが中心となったのです。天地が地天となり、すべてが反対になったのです。神様御自身が真の理想として願った愛の理想、真の愛を中心として一体となり、一つの体となったものは分かれてはならないものです。その血統も神様の直系子女となるべきであるのに、それが妨げられて反対となったのです。
人間の悲惨な姿を毎日毎日、時々に見つめられる神様のその心情はいかばかりでしょうか。自分の息子が不具者となり、王子、王女の栄光をたたえるべき存在が、肥だめのようになり地獄に逆さまに落ちたとするならば、全知全能だという神様の威信はどうなるでしょうか。絶対的な神様の威信はどうなりますか。顔を上げることができるでしょうか。
息子が犠牲になったとすれば、その父親は息子が死ぬようにほっておくでしょうか。このような観点から考えると、愛の神様は愛の対象である私たちを死の場に立たせることができないのです。全知全能の神様であるならば、理想的な世界を造って復活させなければならないのです。父母の愛というものを考えれば、それは十二分に可能です。神様がおられるとすれば、神様は必ずそうすることのできる立場におられるでしょうから、私たちをそのような理想的な復活圏へと移してくださらなければならないという結論になるのです。神様は、私たち人間に住まわせようとして、死ぬようなところに置いたのではなく、私たち人間を高次元的な世界に連れていくため一つの関門として、そのようなところに置いたとするならば、それは素晴らしいことではないかというのです。
創造主の威信までも、全知全能であられる神様の威信までも、あまねく臨在される神様の実存性までも忘れるような心情で、アダムとエバを愛したかったのです。そのような立場で堕落したアダムとエバを見つめられる神様の心はいかばかりであったか、これを知らなければなりません。
今日、私たち人間は神様の息子、娘ではありません。神様がいくら泣いても見て見ないふりをします。いくら悲しんでも見て見ないふりをします。それは人間がサタンの血肉を受け継いで生まれたからです。むしろ神様が悲しむのを見て賛美しています。滅びるのを見れば、喜んで笑うのです。神様がこのような人間を指導し、開拓の方向を教えてやろうというのですから、どれほど御苦労なことでしょうか。神様に、「ため」に生きようという心、憐れみの心がなかったならば、今まで摂理歴史を支えてくることができたでしょうか。