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第三章 復帰摂理歴史と神観の変化 : 三 イエス様が「父子関係の神観」明かす : 1.新約時代は養子の時代 |
イスラエルという名を得たヤコブが勝利したというのは、神様の息子として勝利したのではなく、神様の前に僕として勝利したということです。こうして僕の僕から僕の立場に復帰し、僕の立場から新約時代には養子に復帰するのです。ローマ人への手紙8章23節には「御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる」とあります。アバ、父と呼ぶことのできる養子となることを待ち望んでいるとあります。新約時代にいくらよく仕え、よく信じていた信仰者たちも、牧師、長老、学士、博士はもちろん、みな神様の前では養子です。養子なのです。正直な話です。養子は養子です。養子というのは血統が違います。血統が違うのです。
イエス様は何によって一段上がるのでしょうか。この地上には人間の堕落によって人類の先祖がいないので、先祖の位置に上がればイスラエル民族は養子の立場で接ぎ木され、神様の前で相続圏に対することのできる息子の名分をもつようになります。それゆえローマ人への手紙第8章を見てください。「御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる」とあり、「あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。アバ、父よと呼ぶのである」と書かれています。養子にしかなれないのです。今のキリスト教信者は養子です。養子は血統が違います。
養子は直系の息子とは違います。養子は、もし直系の息子が来れば、夜でも昼でもいつでもすぐに自分のすべての所有物を直系の息子にあげることができなければなりません。その所有物は自分のものではないからです。養子の立場に立っても、養子に定められたとしても直系の息子が生まれたときに「こいつ、どうして生まれたんだ」と言ってはなりません。これはサタンの本性です。神様がアダムを造ったとき、天使長がそのアダムを見て喜ばなければならないのです。喜ぶべきなのに、「どうして生まれたのか」と言ってはなりません。養子はこれを知らなければなりません。養子は息子を保護しなければならないのです。直系の息子が腹中にいるときも「ああ、生まれなければいい……」と言ってはなりません。
それでは養子になるにはどうしなければならないのでしょうか。僕よりも優れていなければなりません。神側の僕よりも良く、サタンよりも良くなければなりません。なぜそうでなければならないのでしょうか。サタンは本来、天使長だったのですが、その天使長は僕だったので、その僕にも劣る人は養子になることができません。これは原理的です。それではその養子と言っても、どのような養子にならなければならないでしょうか。私が神様から相続を受けたとしても、それは私のものではなく、神様の本来の息子、娘の前に返すべき相続だという思想をもった養子にならなければなりません。そのような養子をつくらなければならないのです。 養子というのはのちに来る息子、娘のために、自分が死んでも命を尽くし、自分のすべてを犠牲にしても、神様の願われる直系の息子、娘が生まれることを願い、そのために準備する心をいつももっていなければならないのです。養子の名を立てなければ、息子と関係をもつことはできません。天使長より一段階高い中間的な存在として生まれたのが養子だということを皆さんは念頭に置かなければなりません。
養子というのは血統が異なります。元来、新約の出発において、養子として立てられたのは誰かというと洗礼ヨハネでした。洗礼ヨハネは天使長の代表でした。神様の息子であるアダムの前で反対した天使長ではなく、最後までアダムのために生きる天使長側の地上の代表者として立てられたのが、洗礼ヨハネでした。ところが洗礼ヨハネがイエス様に従うことができず、イエス様と一つになれなかったので、悲運の歴史が繰り広げられたのです。
旧約時代と新約時代が連結される歴史だということを知らなければなりません。旧約を信じてきた人は、僕として養子の恵沢を受けることを願うのですが、それがメシヤが来ることを望む理由です。すなわちメシヤによって僕の悲しい身の上を乗り越えて、養子圏の立場に進むことが彼らの願いです。養子の立場は、直系の息子、娘がいない場合に父母から相続を受けることのできる因縁が成立する立場です。ですから、僕の立場を超越し、神様のみ旨を迎えることのできる恵沢を受けるのを望むようにしたのが、僕の旧約時代を指導してこられた神様のみ旨です。それゆえ、彼らは僕の立場を免れて、神様の相続を受け得る圏内に入ることのできる特権的な一時を願ってきたのであり、それがイスラエルの選民思想でした。
万物から養子的勝利圏を経て、息子の勝利圏を経て、父母の立場で復帰して上がらなければなりません。ですから新約時代はいくら良く信じても神様の息子には絶対なれません。
今までの歴史を見れば、旧約時代は万物を祭物視しました。万物を犠牲にしました。万物を犠牲にした目的は、人間の解放のため、人間の復活を助けるためでした。万物を犠牲にしても人を取り戻したのです。言い換えれば、万物を犠牲にするのは神様の子女を取り戻すためです。旧約時代は万物を祭物とし、新約時代は神様の子女たちが血を流して、この世界の復活圏に向かっていくのです。それがキリスト教を中心とした歴史でした。キリスト教の歴史はイエス様、そしてイエス様に従うすべての個人、家庭、民族、国家が今まで犠牲となりながら祭物的過程を経てきたものです。
旧約時代はモーセに能力の神様を証させました。能力の神様として信じなければ罰を下しました。次に、イエス様の時代には慈悲の神様を紹介しました。イエス様が病人を治さなかったならば追い詰められて死ぬことはなかったのです。神様がこの天下を統一して、万国を救う指導者を養成しなければならないのに……。病気になって死ぬのは、この世の先祖たちが過ちを犯したので、その罪の代価として死ぬのです。それをどうして生かしておくのですか。統一教会の文先生が病気を治したとすれば、数十万の病人を治したことでしょう。病気を治さなくても私たちのみ言を聞いて喜べば、らい病が治らないでしょうか。どんな病気でも治るのです。