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第三章 復帰摂理歴史と神観の変化 : 二 主なる神の正体 : 1.主なる神の属性 |
モーセが愛の神様を紹介することができず、全能の神様、能力の神様、審判の神様を紹介した理由は、イスラエルの民に律法を与え、律法によって天の民を保育するためであり、乳と蜜の流れるカナンの地に連れていくための復帰のみ旨を成就することに、その目的があったということを知らなければなりません。
乳と蜜の流れるカナンは荒野で十戒と律法を受けて契約の箱を担いだ生まれ変わった人だけが行くところです。神様は出エジプトをしたイスラエル民族に、神様の民として再創造するためのみ言を下さったのですが、彼らがみ言どおりに行わなければ、むちで打ち、怖い刑罰を加える恐ろしい神として現れたのです。
サタンが王になっていた旧約時代は、メシヤが現れるまで悪魔が権勢を握る時代なのです。モーセにとって主なる神は恐ろしい恐怖の神、復讐の神、嫉妬の神として現れ、僕の僕となった人間を律法でむち打ち、法度に反すれば容赦なく刑罰を加えた時代が旧約時代です。旧約の主なる神の属性を見ると、嫉妬心の強い神として「私」以外の他の神に仕えるならば恐ろしく嫉妬される神様であり、イスラエル民族にカナン七族を残らず滅ぼせと命じた残忍な神様であり、律法と法度に反したイスラエルの民を目の前で倒した無慈悲な神様です。宇宙を創造された愛の神様であるのに、このように嫉妬と復讐と恐怖心とカナン七族を無慈悲にも滅ぼすという、こんな性稟があっていいのでしょうか。旧約時代は天使が仲保となって神様に代わった時代だからです。
命には命で、目には目で、歯には歯、手には手、足には足、やけどにはやけど、傷には傷、殴ったことには殴ることで返せという復讐に満ちた律法主義は、創造主神様の性稟であるはずはありません。神様は愛であり、許しの神様です。
モーセの前にも神様は何度か現れます。ホレブ山で芝の中の炎のうちに現れモーセを召命し、シナイ山の頂でも現れてモーセに十戒を与えました。今日までモーセの前に現れた主なる神が天使であるとは知らずにいますが、新約聖書の使徒行伝第7章を隅々まで見ると、天使だと記録されています。「40年たった時、シナイ山の荒野において、み使いが芝の燃える炎の中でモーセに現れた。あなた方、み使いたちによって伝えられた律法を受けたのに、それを守ることをしなかった」。このように旧約に現れた主なる神とは天使であって、神様そのものではありません。旧約時代は僕の時代です。息子ではない僕に、父として神様が現れることはできないのです。
主なる神は、モーセが神様の名を尋ねたとき、神様は「わたしは、有って有る者」だと答えて、主なる神だと名を教えます。しかし民族の前に出たモーセは、先祖の神、すなわちアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と、主なる神は先祖の神様であることを強調します。主なる神とは天使です。旧約は僕の時代だったので、神様の本当の姿を現すことができない時代です。
さて、旧約聖書を見ると、神様が闘えと言いましたか、闘うなと言いましたか。サウル王が戦争に勝利したのち、女と子供だけ残して、男はすべて殺せと言われたのに、殺さなかったので罰を受けたことを知っていますか。どうしてそうなったか、考えてみましたか。サタンの男を生かしておけば、サタン世界が再び侵犯するので、そのようにさせたのです。サタンの男がいれば、自分の妻を連れていって思いどおりにするので、男さえ脈をたってしまえば、子供と女は天の側に属することになり、その制度がなくなるのでそうさせたのです。そうしなかったことによって、異邦の神をあがめ、あらゆる異邦の淫乱な風俗が入ってきて、天の国が侵犯されたので、サウルが罰せられたのです。