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第二章 神様と創造の役事 : 五 神様が万物世界を造られた目的 : 4.自然に対する私たちの姿勢 |
朝、目を覚まして自然を見れば、その自然が、かすかに私の本性と絆を結び新しい理想の感情を芽生えさせます。しかし人間の世の中を見れば見るほど、絶望と悲しみの感情が高まるという事実がよく分かることでしょう。本来、堕落していない本然の人間が住む世の中というのは、人間の価値はそのように見る人をして悲しみを感じさせるようなものではないのです。一株の草や一輪の花、一本の木程度の価値のものとして造られた人間ではないのです。いかなる被造万物とも替えることのできない高貴な人間であり、その何ものとも比較することのできない価値ある姿で天上に代わって出てくるべき人間でした。
神様の愛が宿っている自然を見て、「この世の王や有名な人がもっている立派だと言われる物に比べることができるであろうか。骨董品と比べられるであろうか。有名な婦人が着ている豪華な服と比べ物になろうか」という思いをもたなければなりません。それができなければ私たちは自然世界の前に我知らず罪を犯しているのです。一つの生命体を見て「人間がつくった物と比べることができようか。どんなに立派な人でも神様よりも立派であるはずはない」と、神様が心情を注いで造られた万物にすがって何よりも貴く感じる者がいるとするならば、その人は天の息子、娘に違いありません。このような人には祈祷が必要ありません。神様のように生きる人です。天は人間をそのような位置にまで押し出すのです。
人間は自分の愛する人のものは何でも好み、かわいがります。それなのに、最も愛すべき神様の造られた万物をかわいがらないのです。このような人々が神様の息子、娘でしょうか。嘆息する万物の恨を解怨すべき責任を負った皆さんは、一本の木、一株の草からも六千年前、それらを造られたときの神様の心情と創造のみ手を体恤しなければなりません。そのような心をもたなければなりません。それゆえ道の途中で一株の草を見ても、涙することができなければなりません。「主人を失ってどれほど寂しかったことか」と言いながらです。ここで話をしているこの私はたくさん泣きました。岩につかまって泣きもしたし、風が吹くのを見ても泣いたことがあります。なぜそうでなければならないのか、み言を聞いたので、もう理解できることでしょう。
「神様が造られた価値ある万物が、神様と永遠の因縁を結んだ貴い万物が、今日どこかの王宮で国宝だの宝物だの、貴く思われている物ほどの扱いも受けていない悲しみを私が分かってあげなければ、私だけは分かってあげなければならない」と考えてきました。「この地で暮らす世界人類が誰も分かってやらなかったとしても、私は分かってやらなければ」という思いを皆さんがもったならば、その民族は今後、世界人類を支配し得る新しい民族となることでしょう。これは観念ではなく事実です。どこの誰が万物を、代々受け継がれてきた自分の家門の宝物よりも、この世で最も貴い宝石といわれるダイヤモンドよりも貴く思い、しっかりとつかんで離すまいとするでしょうか。そのような人はどこにいますか。神様は御自身が造られたものを心情的に分かってくれて、それにすがって涙する人を見て「よしよし」といわれるのです。
自然とは何でしょうか。神様が私のために、「ため」に生きる愛をもった息子、娘が生まれたときに、「ため」になる万物として、プレゼントとして下さった展示品です。鳥の声一つ、一株の草さえも、愛の息子、娘たちの生活の美化のために造られた装飾品なのです。道に転がっている岩も、息子、娘が国を治める主人になることを知って、その国の装飾品として造ったのです。流れる水も同じです。無味乾燥として単調だといけないので、この上なく調和した和合の園、愛のための世界を見てそれを相続することのできる夢の王子、希望の王子とするために創造したのです。それゆえ万物を通して学ぶのです。雄と雌がチュンチュン鳴くときには、これは主人であるあばさんも学べというのです。お互いに「ため」に生きる世界に向かって自分の人生を、命を懸けて生きる本然の被造世界の美しさを賛美できなければなりません。そうなればその家の垣には小鳥もやってきて住もうとするのです。ひなを産もうとするのです。どういうことか分かりますか。
博物館のある作品がいくら貴重だといっても、生きている作品に優るでしょうか。神様の作品であるこの地球の万物博物館を、誰が神様以上に愛したでしょうか。自分の国の博物館以上に愛したかというのです。道端で踏みつけられる一輪のたんぽぽを、博物館にある新羅時代の金の冠に比べることができるでしょうか。神様が直接造られたものであるのに。そのような神様の心情をもって「神様のための本然の王の立場から、愛を受けていたその立場からお前を愛することのできない私が申し訳ない。恥ずかしい」と言うことのできる心をもって「ため」に生きるそんな王がいたとするならば、一株の草もその王に従って永遠不変に一緒にいたがるのです。そのように生きるべき人間なのです。