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第二章 神様と創造の役事 : 五 神様が万物世界を造られた目的 : 3.自然は愛の理想を教えてくれる教材 |
祈祷する人は、自然は第一の聖書だと言いました。第二ではありません。イスラエルの歴史をつづってきた聖書を見ても、内容を確実に知ることはできません。その内容を見て、先生がどれほど頭を振ったことか、分かりますか。それは占い師の占いのように、耳にかければ耳輪、鼻にかければ鼻輪(韓国の諺:解釈によってどうとでもとれるということ)なのです。現実を逃避するための方便です。ですから事実の内容を判断して前後の事情を明らかにするのは難しいので、聖書よりも神様の造られた自然の世界が一番だというのです。
因縁というのは極めて小さいところから結ばれるものです。皆さんの個体も100兆個もの細胞で因縁が結ばれた生命体です。神様の愛を中心とした創造理念世界、すなわち大宇宙のすべての存在物はどれ一つをとってみても、神様の心情の外で生じたものはありません。このようなことを感じる詩人がいたとすれば偉大な詩人です。一枚の木の葉が揺れるのを見て天宙的な心情を感じ、それを表現できる詩人がいたとすれば、それは宇宙的な詩人だといえます。
私たちの周囲で無意識のうちに繰り広げられている天下万象は、神様の愛と共に存在するものであるという事実を知りませんでした。神霊な境地に入ると、小さな一粒の砂にも宇宙の道理があり、原子の一つにも無窮無尽な宇宙の調和があるということを知ることができます。存在するものすべては、はっきりとは分からないけれども、ある複合的な力を通じて現れた結果だということを否定することはできません。分子を経て原子、原子を経て素粒子……。このようなものが無意識的に存在するのではなく、ある意識と目的を備えて存在するのです。それゆえ存在するすべての物は、神様の愛の手を経てでてきたものであり、必ず神様と心情的な関係を結んで存在しているという事実を、徹底的に知らなければなりません。
修道者とはどのような人でしょうか。一株の草をつかんでも「神様!」と言うことのできる心情で、自分の価値と同等にその価値を認識することのできる人が最高の修道者だと言えます。そのように、その価値をうたうことのできる人が最高の芸術家だと言うことができます。様々に存在する万象を見て、神様の様々な愛と心情の妙味を発見し、それらと友となり、共に楽しむことのできる感情をもった人がいるとするならば、そのような感情で細胞の一つ一つが動く人がいるとするならば、その人は全宇宙を代表することのできる人だと言えます。そのような人が万物の霊長です。ところが食べること以外に能のない人が万物の霊長と言えるでしょうか。
子供たちを見れば、子犬だとか、何かの虫だとか、飛ぶもの、動物といった、動くものを中心に好みます。それはどうしてでしょうか。本来、人はそのようになっているのです。それがどういうことかと言うと、人間は、自然世界や、この地球の動きを見て興味をもつということです。もちろん相対基準は違うかもしれませんが、それを鑑賞することに人間はおもしろさを感じ、興味をもつのです。そうすることで自分自身の愛の属性をすべて学ぶのです。虫たちが生き、昆虫が生き、また動物たちが生きるのを見ると、すべてがつがいになっているのが分かります。このように考えると、自然とは何かというと、人間一つを愛の対象として相対理想を教育するために展開させた教材、博物館なのです。
神様は宇宙を、被造世界のすべての物を愛する息子、娘が愛の理想を求めていくことができるように、教材として造りました。それですべては相対構造になっています。鉱物も主体と対象の関係によって作用します。物質の構成単位である原子も、陽子と電子が主体と対象の関係で作用します。作用しなければ存続することができません。運動せずしては永存し存続することができません。ですから作用しなければなりません。
人間は成長しながら自然を見て習得します。「昆虫の世界はこうなのだなあ」と学ぶのです。月が照らし、星が光る秋の夜にじっと耳を澄ますと、昆虫たちの鳴き声が一つのオーケストラの演奏として聞こえます。なぜ昆虫たちはそのように鳴くのでしょうか。それは相手を求めて理想を歌うのです。愛をささやくのです。鳥やその他の動物たちも悲しい声、喜びの声を何で示すかというと、愛という共通分母に従って声を出します。級は低く、軸から離れていますが、その軸を中心として平衡線をとって回っています。すべての存在はそのようになっています。
鳥たちの歌には三つの種類があります。一つは空腹の信号の歌であり、次は愛する相手のための歌であり、次は危険なときの歌があります。それらはみな異なります。私たちには、普通の人には分かりませんが、鳥たちの世界ではみな分かるのです。空腹で鳴けば、すぐに分かるのです。毎日の生活は何を中心としているでしょうか。空腹なのは一度食事をすれば解決します。だからといって毎日のように危険な場にいるのでもありません。大部分の歌は何を中心としているかというと、相手と授け受ける関係で歌が行き来するのです。
人間は主体と対象、すなわち相対的な双として造られ、また、人間のためにある万物世界もすべて愛の原理のもとに調和をなし、人間の愛によって生命と理想を実現するようになっています。万物世界は人間にとって、特に、成長するアダムとエバにとっては愛の教材であり、愛の神髄が無尽蔵に陳列された博物館なのです。
すべての鳥や動物はつがいになっています。互いに愛を中心として和動します。花と蝶は極と極ですが、互いに和合します。これは天地の調和です。宇宙の極と極が愛を中心として和動するようになります。渡り鳥も同じです。南にいた鳥が北に飛んでいき、北にいた鳥が南に飛んでいって地域を越えて愛します。愛を中心として永遠に回ります。人間はこのような愛を、神様の造った博物館の教材を通じて学びます。
人間と神様が好きで愛すれば、天下のすべての万物はそこに調子を合わせて和動します。神様が愛し喜べば、天使世界も喜び、このすべての被造世界が喜んで拍手を送り、賛美を送ります。歌を歌うことのできる鳥は歌を歌って賛美し、美しい花は香りを漂わせて賛美します。最高の愛の主人公たちが楽しむことのできる香りの雰囲気を拡張するためのものが、この被造世界です。見た目には気持ちの悪いひきがえるも愛するときには「ウッウッウッ」と言います。どれほど素晴らしいことでしょうか。愛を打ちつけて後ろ足を上げたり下げたりしながら愛するその姿は、どんなに素晴らしいことでしょうか。それは最高の芸術です。
アダムとエバは成熟するに従って「ああ、あんなふうに愛するのだなあ」と分かるようになります。神様は万物世界を人間の愛の理想を成熟させるための教材として展開しておきました。それを学んでいくのです。だんだん大きくなるに従って「ああ、昔は妹のように、兄さんのように暮らしたけれど、こうしてみると……」このように感情が変化してくるのです。「ああ、そうか」と学んでいくのです。それで「お前と私は死んでも会わなければならない。他へは行けない」と平衡線で直立しつつぶつかるようになるのです。
最初は神様の子女として生を受けたアダムとエバも、神様の保護圏内で幼いときから成長するに従ってだんだん大きくなっていくのです。そうして知能が発達するので神様がなぜ被造世界を造ったのかを知るようになり、その被造世界を通して教育を受けるのです。被造世界の動くものすべては、私たち人間始祖、本来の祖先となるべきアダムとエバが生活するためのすべてのことを教えてくれる教材でした。完成したアダムとエバはなかったので、理想生活をしていくにあたって標本であり、一つの博物館であったという事実を知らなければなりません。