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第二章 神様と創造の役事 : 五 神様が万物世界を造られた目的 : 1.万物を造られた目的 |
本来、神様は天地万物を遊び道具として造られたのではありません。趣味で造られたのではありません。目的も方向もなく、何らの理念的な内容もなく、ただ造られたのではありません。それは大きな目的と大宇宙の理念をもって造られました。それゆえ極めて微少な物から宇宙に至るまで、すべての存在物には、神様の心情を通じた理念が宿っているということを私たちは否定することができません。それではこのような理念をもって造られた目的は何なのでしょうか。神様の愛を中心とした理念の世界、すなわち愛とともに通じ、愛とともに喜び、愛とともに生き、愛とともに死ぬという世界を目的とされたに違いないのです。
私たちが眠りから覚めて目を開けば、目の前に広がった万象が見えます。見えるその万象を通して何か分からないけれども間接的な印象を受け、その反応する感覚で生活における感覚を高めていくのです。私たちの周辺にある極めて微少な物でも、必ず私たちと因縁が結ばれており、関係しています。私たちが無視しても、その万物はその日その日、天倫の理念によって存在の価値を示して人間と関係を結んでいるのです。なぜそうなのでしょうか。極めて小さい存在から、万物を主管することのできる万物の霊長である人間に至るまで、その存在目的を中心として見れば、神様の大宇宙の理念に通じることのできる愛の理念圏内に入っているからです。それゆえ小さなものは大宇宙の目的を達成するにあたって、大きな分野を担っているものに吸収されて動くのです。小さいものは大きなものに吸収されてその材料となり、一つの要素となり、大理念を中心として一つの目的に向かうのです。歴史はこのように進展していくのであり、存在世界は天倫という原則の軌道に沿って一つの目的のために動くという事実を否定することはできません。
なぜ神様は万物を造ったのでしょうか。御自身が愛する対象を、対象者をもつためです。御自身が愛する対象圏を造るためです。その対象が食べて生きたのちに、自分の本然の世界に戻ってきて、永遠な神様の愛の本国に来て生きるようにするためです。それが分からなければなりません。
聖書には天地創造したことが簡単に述べられています。み言によって天地万物を創造したというのです。「星ができよ」と言うと星が生じ、「地球ができよ」と言うと地球ができたということになっています。しかしながらそこには無限な秩序と法度に従って前進的な原則を継承させ、小さなものから大きなものへと発展させてきたことを私たちは知らなければならないのです。そうしてこのすべての万物を造って、万物の精髄として集約したのがアダムとエバ、人類の祖先です。
今日のキリスト教信者が考えるところでは、神様は全知全能なので一言「このような天地となれ」と言って、このようになったと言います。しかしそうではありません。神様がすべてを投入したのです。もてる精力をすべて投入したのです。もてる愛の力をすべて投入して未来に自分の愛する息子、娘、自分の愛する家庭のための礼物として、贈り物としてすべての物を造ったのです。それゆえ私たちはそのような観念をもって万物を見なければならないのです。
創造するとき、何をもってしたのでしょうか。初めに神様のみ旨がありました。神様の考えがありました。神様の考えとともに計画がありました。人間を創造してこういう人間世界を造ろうという本来の神様のみ旨と計画があったということが分かります。
一つ知らなければならないことは、神様が世の中を造るとき、環境を先に創造したということです。環境の創造を先にしたのです。これを知らなければなりません。そこは必ず主体、対象を中心として作用する世界です。結果がそのようになっているのです。主体、対象が合わさって作用する現象の世界として自然界は展開されています。そのとおりになるのです。
天地創造の道理を見れば、核心を先に造ってから相対を造るのではありません。核心を造る前に、相対的な条件を造るのです。人を造るために土を造っておいて……。外的なものを基盤として内的なものを立てていくのです。それが天地創造の道理なのです。現在のものよりも大きいもの、無価値なところから、より価値のあるものを求めていくのです。道理がそうなのです。今日、人間創造を考えると、人間を造るときに体を先に造っておいてから霊を造ったのです。
神様が六日間造った万物を御覧になって誇りたかったのです。すべての被造物を御覧になって無限に喜ばれたのです。その喜びの心をもって「良し、良し」と重ねて言われたそのみ言は、誰に向かっての御言なのでしょうか。万物に向かって言われたみ言だったのです。万物に向かってそれほど懇切な気持ちを抱いて言われたということを私たちは知らなければなりません。
神様が被造世界を造るとき、そこには喜びがありました。造ってから見て、良しと言われました。喜びがあったということです。喜びとは何ですか。ある目的を成し遂げたときに感じるものです。造られた万物に神様の目的意識が内在していたがゆえに、創造された万物に神様は喜びを感じられたのです。それでは復帰の世界とはどのような世界なのでしょうか。一言で言えば、森羅万象の個体個体を見て神様を賛美することのできる心情的な因縁を立体的に備えた人が住む世界です。天から見た人格の価値はそこにあります。それゆえ昔、聖フランシスのような人が、動物を見て、あるいは鳥を見て説教したというのも、うそではありません。夢のような話です。しかし夢ではなく事実です。
愛は一人でいるときにもありますが、愛の作用は相手がいなければ生じません。神様でもどうすることもできません。神様が最も好む愛なのですが、その愛は一人では完成しません。一人では愛の喜びを感じることができず、愛の衝動を感じることはできません。そのような理由から神様が宇宙を造ることになりました。神様が愛し、喜ぶことのできる相対として宇宙を創造したのです。そうして宇宙を創造してから、その宇宙の主人としてアダムとエバを創造しました。