第二章 神様と創造の役事 : 三 アダムとエバを通じた愛の理想 : 1.アダムは無形の神様の体として造った

 神様がアダムとエバを造った目的はどこにあるのでしょうか。我々人間の形状を見てください。体をもっています。しかし無形の神様には体がありません。体をまとわずして、体をもたずして霊界や地上世界を治めることはできません。それゆえ神様が人間の父母として現れるためには体を着なければならないのですが、その体を着た代表がアダムとエバということです。アダムとエバは人間の始祖であると同時に、天地を主宰する神様の実体なのです。実体をもった神様、すなわち永遠な無形世界の神様の形状を代わりに着て現れた立場で、父母の立場で世界を統治する責任がアダムとエバにあったのです。実体世界を造った以上、実体世界の中心がアダムとエバなので、アダムとエバの形状に倣って霊界と肉界を連合させようとしたのです。そういう意味でアダムとエバを造ったのです。

 神様はなぜアダムとエバを必要としたのでしょうか。二つの目的があります。一つは愛の理想を成就しようということです。二つ目は無形の神様が形状を着て現れるためです。それゆえ無形の神様が有形の形状をまとって有形世界と関係を結ぶためのその基礎、その核心がアダムとエバなのです。それでアダムとエバが完成して霊界に行けば、アダムとエバは神様の体のようであり、神様はアダムとエバの心と同じ位置に御座されるのです。一人の人、一人の霊界世界で完成した人を、実体世界の体と心のような一つの結果としようとしたのが、神様がアダムとエバを創造された目的です。

 無形の神様が実体をもった神様として登場するというのがアダムとエバの創造なのです。アダムとエバを創造したのは、無形の神が実体の神様として登場するためなのです。それはどういうことでしょうか。南極と北極のような極を描いてこそ一つの磁石となることができるのです。それゆえ目に見えない神様と目に見える神様が調和を成すことのできるこのような原理が現れるのです。そうして初めてこれが回る作用をすることができるのです。上が下の位置へ行き、下が上の位置へ行き、内的が外的に、外的が内的に回って一つとなることができるようにしなければなりません。何によってするのでしょうか。愛です。

 霊界と肉界は何を中心としたものでしょうか。霊界の代表は神様であり、地上の代表はアダムとエバなのですが、これを連合しなければならないのです。ゆえにアダムが生きている間アダムがもっている形態は、地上において地上の国の王であり、永遠な王権をもって現れたものです。エバは誰かというと、皇后です。永遠な皇后権を代表する皇后として登場するのです。そしてその永遠な王権を代表した夫婦がそのまま霊界へ行って神様に代わる役割をするのです。

 天の国に無形の神様が一人でいて何をするというのでしょうか。見えない神様だけではどうすることもできないのです。私たち人間の父母となるためには、体をもって感じることができなければなりません。人間のような体を着なければならないので、体をまとうために、仕方なくアダムとエバを二重的存在として造らざるを得なかったということを知らなければなりません。

 なぜアダムとエバを二重構造に造るしかなかったのでしょうか。無形の神様と同じくなるには、心と体が一生を通じて生きながらあの世に行くまでに、一つとなったという基準を立てなければなりません。そうせずしてあの世に現れればその形状が神様と一つとならないのです。実体的王権をもった父母が無形の父母である神様と一体となって永遠な天上世界に体をもった王権を顕現させるために、アダムとエバを二重構造に造りました。神様もアダムとエバに連結しなければ世の中と関係を結ぶ道がないのです。アダムとエバと関係を結んでこそアダムとエバの息子、娘と関係が結ばれるのです。そのようになるのです。

 神様が人を造った理由は同じ父母の位置に立てるためであり、体を着るためなのです。ですから外的な神様はアダムとエバであり、神様は内的な神様なのです。体的な神様がアダムとエバであり、心的な神様が無形の神様です。その神様が人類の父母です。本来の父母です。その父母が何人もいるのではありません。一人です。一人なので、その一人の方が入ることのできるアダムとエバ、男性と女性の二性性相をもった分聖殿のようにしておいて神様がそこに入るのです。神様が臨在して作用してこそアダムとエバの二人が理想的作用をするのであって、神様が作用しなければ神様のみ旨も何も分からないのです。

 神様は父の位置、父母の位置に立ったお方です。人間を地の神様として立て、創造主である神様は天の神様として縦的な神様として立てて、これが天地合徳し、こうして愛によって生きようというのです。神様も一人では寂しいのです。

 創造主は縦的な真の愛を中心とした縦的な父であり、堕落していない本然の人間始祖であるアダムとエバは、完全に90度で一つとなることのできる位置に立った完成した父母、横的な体の父母なのです。創造主は真の愛を中心とした心の父母であり、アダムとエバは横的な体の父母なのですが、この二つが合わさって天の父母と地の父母が一つとなり、天の人が合わさって息子、娘が生まれたならば、この地に生まれるすべての人々に宗教は必要ないのです。そのままで神様の国へ行くのです。堕落ゆえにこのような複雑な問題が生じたのです。そうなっていたならば私たちの体と心が分かれるということはなかったことでしょう。

 神様が男性と女性を造られた目的は、二人が愛し合って一つとならしめるためでした。アダムはアダムのために、エバはエバのために造ったのではありません。アダムはエバのために、エバはアダムのために造られたのです。また、神様御自身の愛と喜びのためにアダムとエバを造られたのです。神様がアダムとエバを造ったのは、知識、金、権力などが必要だからではなく、唯一愛が必要だったからです。

 神様がアダムとエバを造ったのは、知識を与えるためでもなく、権力を与えるためでもなく、たくさんの財物を与えて裕福に暮らさせるためでもありません。彼らを創造した目的は愛の実体として立てるためだったのです。

 神様が人間を創造した目的は、家庭を通して愛の基盤をつくろうとしたのです。愛のない被造世界は地獄であり、神様御自身もまた存在価値が無意味なものとなるからです。神様が人間を創造された目的は愛のためだったというのが創造の絶対法であることを知らなければなりません。

 神様がなぜ人間を創造したのでしょうか。男性は東であり、女性は西なのですが、縦的な神様を中心として東西四方、平面が必要です。そこでは360度なので無限な面があるのです。その面を通して何をしようというのでしょうか。天国の民を生産する工場、出発地がこの地球です。それゆえ天国の民は、この地球で生きてから行った人です。行ってみてください。地球星のほかに国はありません。宇宙に人がいるなどと言っていますが、いったい何が住んでいるというのでしょうか。宇宙はすべて人ゆえに造られたものです。

 私たち人間は、神様より優れているでしょうか。劣っているでしょうか。神様が人間を創造するとき、縦的なアダムとエバしか造ることができませんでした。しかしながら私たちは息子、娘を生めば20人以上も生むことができます。それは神様にはできないことです。神様はアダムとエバしか造れませんでした。なぜでしょうか。縦的なものは絶対的な基準が一つなので、絶対的男性一人、絶対的女性一人しか造れないのです。

 アダムとエバは神様の息子、娘として生まれましたが、神様の中にあった双胎が実体として現れたものです。無形の男性、女性の双胎が有形の男性、女性の実体として現れたのがアダムとエバでした。神様の息子、娘がこのように始まったのです。神様の無形の心情圏の内容を実体心情圏として完成させて、無形と有形が一つとなるためのものが創造理想です。創造理想は愛を中心として対象圏を成そうというものです。

 アダムとは何でしょうか。神様の内在的性稟の半分を実体として展開した表示体です。エバは何でしょうか。女性の性稟を実体とした表示体であり、表した存在です。表したと言うとき、表したということは実体をもっている、表示体であるということです。表れる前に、表れていない動機があって表れたということです。その表れていない動機が何であるかというと、私たち統一教会では無形の実体である神様です。このように見るのです。

 一男一女は無形であられる神様の実体対象として表れた息子、娘です。男性は神様のプラス(+)性稟を、女性は神様のマイナス(ー)性稟を表した実体対象です。創造の理念は、両性の中和体としておられる神様の性相を二性に分立したのちに、再び神様の本性相に似た姿に合性一体化することです。一人の男性と一人の女性は、それぞれ神様の一性に似て出てきました。したがってこれらの一男一女の結合は神様のプラス(+)性稟とマイナス(ー)性稟が一つとなることです。すなわち神様に似た中和体となるのです。それゆえ人間二人、すなわち夫婦は神様の全体を表象する結合体なのです。