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第二章 神様と創造の役事 : 二 人間を創造された目的 : 2.愛と生命の核心をすべて投入 |
神様はあらゆる万物を造り、その万物の主人公として人間始祖をエデンの園に造られました。人間を造るのに、神様がいたずらに造られたのではありませんでした。趣味で造られたのではありませんでした。人間を造り、万物を代表する中心として立てるまでの神様の苦労と精誠は、言葉では到底表すことができないという事実を私たちは知らなければなりません。神様が人間を造るとき、ありとあらゆる精誠を尽くし、心血と、御自身の生命の核心をすべて注いで造り、愛と心情をそっくりそのまま注いで造られました。どんな力をもっても離すことができず、離れようにも離れることのできない因縁の中で造られたのです。このように造られた人間であるゆえ、その人間を見つめられる神様に初めて平和が宿るのであり、すべての情と幸福はその人間を通してのみ宿ることができるのです。
神様は人間の父であり、人間は神様の息子、娘です。神様が骨の中の骨、肉の中の肉、骨髄の中の骨髄をそっくり注いで造った人間であるがゆえに、このような人間が神様を引っ張れば、引っ張られるしかないのであり、また神様が人間を引っ張れば、引っ張られるしかないのです。神様はこのような因縁の中で、内容と目的が一致する人間として造られたのです。もし、そのように造った人を見て神様が賛美するみ言や詩があるとすれば、それはこの世のいかなる詩人や文人にも表現することのできない最高の作品となることでしょう。その対象は神様でもなく、万物でもなく、唯一万物を代表した人間なのです。
神様が被造万物の中で神様の愛の対象となることのできるその存在が我々人間です。神様は愛の対象を造るために全心全力を尽くし自己のすべてを投入したのです。神様はこのように御自身の全体を投入して何をしようというのでしょうか。宇宙の愛の核を設定しようというのです。それが創造理想でした。
愛について語るとき、神様にそのようなものはありません。神様が造られた創造物にはありますが、神様にはそのようなものはありません。あったとしても心の中に内的にあるのであり、形として表れることはありません。それで何をするのでしょうか。それが誰にあるのかというと、人間であるアダムにあり、エバにあります。ですから神様よりも、もっと貴いものを人間がもっているということを知らなければなりません。
神様は自分の愛の相対が自分に優ることを願って創造を始めました。今日の私たちもそこから出発したので、自分の愛の相対は自分に優ることを願うのです。皆さんもそうでしょう。神様も同じです。
神様が御自身の愛の対象として人間を創造するとき、自分の優ることを願う立場で100パーセント、10000パーセント以上を投入しようとしたのです。投入しては忘れ、また投入し、より貴いものを与えようとしたのです。
神様が人間を創造するとき、御自身より立派な愛の相対を造ろうとしたので、神様のすべての要素、目に見えない無形の要素を100パーセント実体化させるために投入し、また投入しようとしたのです。それはどういうことでしょうか。投入して忘れることのできるところにだけ、真の愛の起源を発見することができるからです。簡単な内容です。これが宇宙の根本原則です。
人間の欲望の最終着点、人間は欲望の最大の完成基準に向かうことのできる方向性があるのですが、それが私たちに作用しているという事実を発見しなければなりません。聖書には「私たちの体は神様の聖殿である」とあります。それがどういうことなのか解釈できずにいるのです。たとえ神様でも、神様と私が愛をささやくことのできる愛の対象圏となり、その愛の対象圏と一つとなれば、宇宙を相続することのできる権限が生じるからです。愛という原則基盤を通して神様の造った世界、霊界、無形世界、実体世界、このすべて、宇宙の相続権を獲得することができるのです。この驚くべき事実を知らずにいるのです。