第二章 神様と創造の役事 : 二 人間を創造された目的 : 1.神様の愛の対象として造った

 神様は人間を愛ゆえに造りました。人間はなぜ造られたのでしょうか。愛ゆえに造られました。人間が万物と違うのは、神様の息子、娘として造られたことです。神様の直系の愛を受けることのできる対象者として造られたのです。これが人間の特権です。

 完全なプラスである神様は、完全なマイナスを創造するようになっているのです。それでは宇宙の主体の立場に立たれた神様の対象は誰でしょうか。これが問題です。神様はなぜ人を造ったのでしょうか。人は神様の無形の内的な相対的実体存在だということです。少し難しい言葉です。

 人を創造して育てて、天宙の主人である神様の代わりに愛をもった者として、自分よりも高い座につくようにして、主人にしてやろうということなのです。

 万有の中心は誰でしょうか。人なのです。その人というのは、どのような存在なのでしょうか。全知全能なる神様の前に相対的価値として登場したのが人間だ、と見るのです。人間は万有の愛の表象体として、一つの灯台のように光を放つことのできる中心体として現れた存在です。そのような存在が人です。

 人とは何ですか。神様の愛の対象存在として造られました。神様が二性性相であるだけに、プラスとマイナスの二性性相の主体であるだけに、その主体の前に対象となるためには、プラスとマイナスのような二性性相の形態が必要です。その形態というのは、主体の性稟とは反対の形態ではありません。すべての性稟の相対性を備えて、愛という本質にぴったりと合わさる相対的形態のことをいうのです。 これが相対存在なのですが、それは他のものには合いません。愛にだけ合うようになっているのです。神様には知識といったものや他のものは必要ありません。愛が必要なのです。人間がこの宇宙の中心だというのは、愛の理想を果たすために被造世界を造ったからです。愛の神様に代わって、主人の前に最初に中心の位置に立って愛されるという特権をもっているがゆえに「人間は万物の霊長である」という言葉が成立するのです。

 神様はなぜ人間を創造したのでしょうか。息子、娘の生命を見るために創造したのではありません。その息子、娘と共に愛をするために人間を創造したのです。いくら考えてもそうとしか考えられません。人間を創造した目的は愛のゆえです。神様の愛を中心として、その基盤の上で生命が創造されたのであり、生命を造って愛を誘発したのではないのです。言い換えれば、本来神様の心に愛が芽生え始めて生命が始まります。その生命は愛から始まったので結果も愛にならなければなりません。それゆえ愛を除けば私たち人間は不幸なのです。

 神様はなぜ人を造ったのでしょうか。全知全能なる神様、遍在される神様が何が足りなくて人を造ったのでしょうか。キリスト教式にただ造りたいから造ったのだといえば簡単です。しかし、それでは通じません。神様は何が必要でしょうか。神様がお金が必要であり、金塊が必要であり、ダイヤモンドが必要でしょうか。そのようなものはいくらでもあります。また、神様は知識が必要でしょうか。必要ありません。知識の王なのですから、知識はいくらでもあります。全知全能なる神様には権力は必要ありません。あればあったで、なければなかったで済みます。そのようなものは「ある」と言ってもいいし「ない」と言ってもいいのです。大した違いはありません。

 神様に必要なものは何でしょうか。神様は生命も必要ではありません。生命の主体であるのに、そのようなものがどうして必要でしょうか。それでは何が必要でしょうか。愛が必要なのです。なぜ神様に愛が必要なのでしょうか。愛というのは相対的関係から成立するものだからです。神様も愛を必要とする神様にならなければ、この創造世界や人間世界と関係を結ぶことができません。それで愛をもって尋ねてこなければ存在世界と関係を結ぶことができないという結論になるので、神様は愛を標準に定めてきたのです。

 神様は人を最も貴いものと思っていますが、なぜ貴いものと考えるのでしょうか。神様は愛の相対を必要とするので最も貴く思うのです。いくら神様が愛をもっていたとしても愛する対象がいなければ愛を感じることができないのです。相対的関係においてのみ愛を感じるのです。神様が人間を最も貴く思うのは、人間は神様が愛することのできる対象の位置に、愛の対象の位置にいるからです。神様が最も貴く思うのは正に人間なのです。

 神様がなぜ人を造ったのでしょうか。それは愛を完成するためです。その愛は神様から始まるのではありません。相対から求め得られるのです。相対がなければ見いだされることはありません。神様が最高に貴いものを成就させるためには相対が必要なのです。神様も相対がなければならないのです。それで相対を造ったのです。神様御自身も、相対から絶対的な愛をつくりあげることができるように相対を求めていくのです。それゆえ神様も愛のためにおられるのです。愛のために存在されるのです。愛の驚くべきところはここなのです。

 人は神様のためにあり、神様も人のためにあるのです。それゆえ真の愛というものは「ため」に生きるところから始まるのです。本来人間はどこから生まれたのでしょうか。神様も愛から始まったのです。愛ゆえに生まれたのです。愛が起源なのです。

 神様御自身が愛するために愛の対象が必要で人を造ったのです。一人で愛することはできません。対象圏がなければ愛は成り立ちません。神様も愛が絶対必要なので被造万物を造り、被造万物を代表した万物の霊長として人を造ったのです。人が絶対的に必要であるがゆえに、絶対的愛の対象圏の価値を与えたのです。愛を共有するために、その対象的存在として造ったのが人間なのです。ですから人間自体が神様の体です。神様の体となったアダムとエバの二人が夫婦になったということは、神様が夫婦になることなのです。そうなれば天上世界に行ってアダムとエバの姿で神様が人類の祖先となり、霊界と地上界を治めるようになっているのです。そのようになったのです。

 神様はなぜ人を造ったのでしょうか。好きで造ったのでしょうか。違います。見るために造ったのでもありません。愛を求め得るために造ったのです。それが分からなければなりません。