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第一章 神様の本体 : 一 神様は無形の主体であられる : 2.本来は自然に分かるようになっていた |
人類が堕落しないで本性の善なる父母を通じて生まれていたならば、神様がいるのかいないのかという弁論は必要ではなかったはずです。生まれながらにして自然に分かるというのです。赤ちゃんがおなかの中でお乳を飲む方法を習ってから生まれますか。生まれてすぐに目の前にお乳があれば吸うようになっているのです。自動的に分かるようになっているのです。人類が堕落しなかったならば、神様との関係を自動的に知り、自動的に解決し、自動的に行かなければならない立場であることを知るようになっていたはずです。ところが堕落することにより全部忘れ去ってしまったのです。それで神様がいるのかいないのかを疑う、結果の世界になったのです。これは悲惨な事実です。
人はこの宇宙の被造万物の傑作品です。どのくらい傑作品かというと、皆さんが察することのできないくらい大きく素晴らしい傑作品です。それでは絶対的な神様がいらっしゃって、人を造られたとしたら神様自身が言うこと、見ること、感じることを人間には分からないように造られるでしょうか。
神様に似たアダムとエバが人類の父と母になったならば、その姿を通じていつも神様がいらっしゃることを歴史を通じて認知できるはずでした。もしそのようになったとすれば神様に対して疑うようなことはできなくなるのです。
堕落しなかったならば、いつでも見ることができ、呼べばすぐ現れるようになっていたのです。そのような基準になったならば、誰が神様は存在しないと否認するでしょうか。否認することができないのです。
「神様がいる、神様がいる」というのは言葉だけではないのです。原理を通じて主体と対象の関係を中心として見る時に、神様は不可避的にいなければならないという立場ではなく、神様は私が考える前にいたのです。私のすべての感覚、私の一切を主管する天ではないかという立場なのです。それを認識することが何よりも重要な問題です。知って認識するのが原則ではなく、認識して知るようになっているのです。
私たちは寒ければ寒いというのを知って感じるのではなく、寒いことを感じて知るのではないですか。これと同じように神がいらっしゃるなら神がいらっしゃることを皆さんが感じなければなりません。細胞で感じなければなりません。その境地が問題なのです。
言い換えれば体恤的立場をどのように私たちが確定するのかという問題、これが問題なのです。
皆さんが寝ていても「お父様」と言うことができ、独り言でも「お父様」と言えなければなりません。御飯を食べるのも忘れ、寝るのも忘れながらその生活の裏面で父に対する懐かしさをもって「お父様」と言えば、父の手に捕まるようになるのです。夢のような事実が起こるのです。「お父様」と言えば父の懐に抱かれるのです。
このような表面的圏において体恤的感情をどのように体得するのかということは信仰生活で何よりも貴いということを知らなければなりません。そのような体恤の感度、感じる度数、その量いかんが、その人の信仰基準になり得るのです。
そのような愛の心情をもったならばどこかに行って「私がこれをしなければならない」という時は、「天よ、共にいてくださるように」と言う前に既に神様は共にいるのです。このようなことを皆さんが感じれば、「有り難い神様」と言うようになるのです。
統一教会の原理は、神様は無形の絶対的主体として、二性性相の中和的主体としていらっしゃる方だと言います。二性性相であられる神様自身の分性的実体としてアダムとエバを造り、彼らが成長して愛を中心として横的に連結されるとき、縦的な立場で中心になろうとされたのです。それは何のことかと言えば、アダムとエバが成熟すれば神様の男性性相はアダムの心の中に、神様の女性性相はエバの心の中に入っていくということです。だからといって神様が分かれるのではありません。そのような二性性相の主体としていらっしゃる神様なので、アダムとエバの心の中に臨在することができるというのです。
神様は二性性相の中和的存在だというでしょう。中和的立場で愛を中心とした統一的存在ということは今まで話さなかったのです。そこに愛を中心とした統一的存在だということをつけ加えなければならないのです。