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第一章 神様の本体 : 五 法度の中での全知全能である : 3.神様も愛の前には絶対服従である |
神様も愛が好きなので、神様も愛に及ぶことができるでしょうか。天地を造られた全知全能なる素晴らしい神様が? 神様が愛に及ぶことができるでしょうか。家の中で虎みたいなおじいさんが、小柄なおばあさんにどうすることもできないこともあるのです。それは何の鼻をつままれてそうなのかというのです。愛の鼻です。愛には偉大な力があるというのです。ですから神様も、愛の前にはどうすることもできません。
能力が多く全知全能なる神様がいらっしゃるならば、神様はどんなものを好まれるのでしょうか。神様は人間より優れているので、愛を好まざるを得ないという結論が最も理論的に妥当なのです。それでは神様の愛とはいったい何でしょうか。永遠の昔から永遠に「ため」に生きる愛をもっておられ、そのような愛をしようとする方が神様だというのです。
皆さんは神様を中心として息子にならなければなりません。神様を中心として息子になるには何を中心としてなりたいですか。お金ですか。神様が「私が全知全能なる神様なので、大きい権力を中心とします。父子の関係にならなければ」と言いますか。知識ですか。それはすべて付録です。神様は愛を中心として、その愛と私は一つにならなければならないのです。「その愛だけが最高だ」。そうでなければなりません。この愛を完全に占領する日には、天下にどんなに権能が多い神様でも「うん、うん」と言うのです。
いくら神様が全知全能だとしても、男性、女性は愛に絶対服従だと命令することができますか。「私も真の愛には絶対服従するから、私のようにお前たちも真の愛に服従しろ!」と、こうすればこそ父なる神様として堂々たる神様になるのであって、神様は守らずに「おい! 息子、娘、お前たちは愛に絶対服従しろ!」と言えば、それは話になりません。先生の位置にいる神様が、独裁者の神様になるのです。神様も同じように「私が真の愛に永遠に永遠に絶対服従するように、息子、娘も真の愛を中心として永遠に服従すべきだ!」と言うとき、息子、娘が「アーメン!」と言うのです。そうでないときには「父は自分勝手にして、私たちだけに服従しろと言うのでしょうか。ふん!」と言うのです。問題になります。このように見るとき、神様も真の愛には絶対服従するという論理を立てなければならないのです。
どんなに全知全能なる神様でも、真の愛の前には絶対服従するのです。どうですか。この言葉を聞くのはいいですか、悪いですか。その真の愛は東から聞けば良く、西から聞けば悪いでしょうか。西から聞いても良く、南から聞いても良く、北から聞いても良く、上から聞いても良く、下から聞いても良いのです。夜も昼も四季も越えて、青年時代と老年時代を越えて、真の愛は永遠に聞いても悪くないというのです。
絶対的な力を主張する神様も、愛が定着できるところ、愛が立つことができるところを探されるのです。神様も愛を中心として絶対に好まれるのです。絶対に好まれますが、どのくらい好まれますか。絶対的、全知全能、遍在されるよりも好まれるのです。神様はすべてのものを捨てたとしても、愛を中心として絶対服従しようとするのです。そうしてこそ話が通じるのです。神様は人類の父であると言うでしょう。それでは、父自身が愛を中心として生きずに、「子供たちよ、お前たちは愛に絶対服従して生きろ」と言うことができますか。根源がなければ駄目なのです。それゆえ神様自身も愛に絶対服従して生きるとき、「私がこのように生きるので、お前たちもこのように生きなければならない」という教育をすることができるのです。
絶対的な神様も「ああ、私が絶対的で全知全能で遍在するのですべてをもっているが、私もその何かに順従して生きることができたらいい」と言うのです。神様も「ため」に尽くしたい心があるのです。そんな神様なので、私のために尽くせという愛をしないのです。「ため」に尽くせという愛はいけないのです。
神様が全知全能だと言ったので、全知性を中心としてですか。知識を中心としてですか。違います。それでは何を中心としてですか。力でもってですか。力をもってしても駄目です。どんなに春に力があるとしても、花を咲かせる環境を越えることはできません。どんなに夏に力があるとしても、生い茂らせることができるそんな時期を越えることはできません。秋を迎えれば、それが全部枯れてしまうのです。秋がどんなに結実の時期だとしても、冬を克服できないのです。これを克服するためには、いつも太陽を中心に仕えていなければなりません。そこで春夏秋冬を克服することができます。それ以外はできません。それは何のことかと言えば、息子、娘、姉、弟、兄弟同士けんかしている場面において、父母の伝統であられる神様がそこに入ってきて、中心となり「このようにしろ!」と言うとき、統一ができないでしょうか。「統一できない」と言う者は狂った者です。
今日、現代科学が滅びざるを得ない内容とは何かと言えば「神様は全知全能なる神様なので、その方は愛も思いどおりにすることができる」と考えることです。自分一人で思いどおりに愛することができますか。うちの奥さんなくして、できますか。できる言う者は狂った者です。それでは神様一人で愛することができますか。
神様は全知全能ですが、神様のように全知全能なものがもう一つあって、二つの全知全能なものが愛するようになれば、その世界はどんなものだと思いますか。これがバランスが合わないで、かえって逃げてしまうというのです。その二人の中で引っ掛かって、行くこともできないし、来ることもできないのです。横に外れてしまうのです。弱いものは強いものに行き、強いものは弱いものに入っていってこそ、ちょうど真ん中にはさまれて身動きがとれないのです。 弱いものは強いものを、強いものは弱いものを願います。女みたいな男が好きな女は、死んでしまえというのです。女のような男を愛するという女は、死んでしまってもいいというのです。女が女の手を触れれば気分がいいですか。女同士で手を握ると気分がいいですか。ソフトな女性の手がソフトな手を握れば、それはどれだけ気分が悪いでしょうか。二つのソフトな手の感じが、どれだけ気分が悪いですか。それは死ぬよりももっと嫌なのです。だから死んでしまえというのです。
神様がいらっしゃると言うとき、その神様はいったいどんなお方でしょうか。全知全能な方、遍在される方、それもいいです。全知全能で遍在され、できないことがない方……。しかしどんなにできないことがない力をもっていて、どんなにすべてのものより優れた立場に立ったとしても、自分だけのためにさせようとする神様ならばどうなりますか。千ならば千、万ならば万、数多くの人類、多分数千億になるでしょうが、その人類が集まって住むそのような霊界があるとすれば、霊界において神様が「ああ、私は全知全能の方で、絶対的な存在なので、お前たちは絶対的に私のために生きよ」と、このように言われたらどうでしょう。全部神様だけのために尽くさなければならない立場に立ったならばどうなりますか。私たち人間の良心の本質から見るとき、それを永遠に歓迎することができないのです。それは必ず相反するのです。皆さんの心は相反するしかないのです。いつでも、そうではないですか。