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第一章 神様の本体 : 五 法度の中での全知全能である : 2.愛のみが絶対基準である |
神様が一つだけどうすることもできないものがあります。神様は全知全能でしょう。全知全能ですが一つだけ思いどおりにできないものがあるのです。それは何だと思いますか。金がつくれないでしょうか、ダイヤモンドがつくれないでしょうか。力がないでしょうか。全知全能なる方が一つだけつくれないものがあるというのです。それは何ですか。愛だというのです。愛です。先生の心にも愛がありますか。あると思いますか。皆さんの心にも愛がありますか。あることはあるのです。あることはあるのですが、自分一人で「私の愛する人、私一人の愛、私の恋人!」と言っていれば気違いになるのです。
神様一人で愛を成すことができますか。全知全能であられ、唯一無二であられる神様一人で、「ああ、気分がいい!」と、そう言いますか。そうすれば神様も気が狂ったと言うしかありません。レバレンド・ムーンも愛を感じることができるものをもっているからといって一人で「ああ、うれしいな! ああ、私の愛する人よ!」と、こう言うならば、それは気の狂ったやつだと言われるのではないですか。しかし、相対となる紙のかけらでも、このような手拭いを中心としても「愛するお前、手拭いよ!」と言うならば、誰が悪口を言いますか。宇宙に代わって登場することができる相対的価値と権威は、愛の世界でのみ可能なのです。
どんなに絶対者の神様だとしても、一人では愛をもつことはできないのです。愛を必ず相対的関係でのみ見つけられるものなので、どんなに全知全能なる方だと言っても愛だけは一人で所有することができないのです。もちろん愛の素性をもっていますが、愛の刺激と愛の信号は相対を通じてのみ再現されるのであって、自体だけでは顕現することができません。これが愛だというのです。愛の力です。
寡婦と男やもめをかわいそうだと言いますが、なぜかわいそうだと言いますか。愛はその中にありますが、発動する何かがないからです。神様がいくら全知全能で遍在する神様だとしても、相手がいないときは愛が作用しないのです。天宙を造られた神様は、誰を中心として相対したいのでしょうか。アダムとエバを中心として愛の作用をしたいのです。
神様は愛が好きですが、神様が一番好きな愛はどんな愛でしょうか。真の愛です。ところで真の愛ですが、どのようなものが真の愛ですか。真の愛というのは愛の根をどこにおいて言いますか。その根を神様においていないのです。それはおかしな話でしょう。全知全能の神様が真の愛の主人公なのにもかかわらず、その愛の根は神様から始めたくないというのです。その愛の対象になることができる人に根を植えたいと考えるのです。
神様が天地を創造するとき、誰のためにしたのでしょうか。神様自身のためにしたのか、相対的な創造物のためにしたのでしょうか。神様はもちろん自分のために造ったと見ることはできますが、相対を重要視することにすべての創造の基準をおいたということを知らなければなりません。その相対の主体が誰かと言えば人間です。人間を中心として、すべての人間の幸福を中心として考えたのです。神様自身こそ全知全能な方ではないですか。
神様は絶対的であり、また全知全能で遍在する神様ですが、神様も愛だけは思いどおりにできないのです。神様も愛の支配を受けます。それでは神様は何ですか。神様は全知全能ではないのではないでしょうか。「神様、あなたは全能ではないのではありませんか」と言えば、「私は全能だが、愛には全能ではない」と言われるのです。神様がなぜそうなのですか。
神様一人では神様の本分を尽くせないのです。それは何のおもしろ味がありますか。食べ物が心配ですか。寝るのが心配ですか。着るものが心配ですか。思いどおりに供給を受けることができるのです。飛行機に乗って空中を回るとしても、一時間も回ったらおもしろくないのです。どんなに全知全能なる神様であり、どんなに威張った神様でもおもしろくないのです。私たち人間と同じなのです。それで神様も仕方がないのです。自分が努力して貴いとするものを創造しておいて、行ってみるおもしろ味がなければならないのです。このようになるのです。
神様は何が恋しくて創造したのでしょうか。絶対的なのに神様は何が恋しくて創造をしたのかというのです。その方は黄金も必要なく、知識も必要ない全知全能なる方なのに、備えていないものがない方なのに、何が必要で人を造ったのかというのです。創造の根本動機とは何でしょうか。権力でもなく知識でもなく、所有物でもないというのです。神様には何がないでしょうか。愛の基盤がなかったのです。神様もやはり一人でいては愛を成せないのです。ですから天地創造の動機、アルファ的起源も愛だというのです。
神様に何の愛が必要なのでしょうか。神様も愛をもっていますが、相対がいなければ愛せないというのです。皆さん、愛をもっていますか。ところが一人で「ああ、いいな! ああ、私の愛する人よ!」と、それがいいですか。愛というのは相対が現れなければ作用しないのです。これが宇宙の原則です。どんなに全知全能なる神様でも、愛の相対がいなくなれば孤独な神様であり、悲しい神様なのです。
神様がどんなに素晴らしく、どんなに絶対者であられ、全知全能な方だとしても、一人ではいいことはあり得ません。「幸福」という名詞、あるいは「良い」という名詞は、一人でいて設定される言葉ではありません。必ず相対関係をもった位置にいてこそいいのであって、そうでなければ幸福という言葉はあり得ません。どんなに全知全能なる神様だとしても、一人でじっとしていてみよというのです。それが幸福でしょうか。歌が上手な音楽家が一人で歌を歌ったとしましょう。それが幸福ですか。相手がいなければなりません。授受するものがあってこそいいのです。それと同じです。神様が喜ぶためには、神様が一人でいてはならないのです。
神様自身を存在させる起源とは何ですか。何から生まれたのでしょうか。神様が存在するための起源とは何でしょうか。全知全能ですか。絶対的権限ですか。絶対的権限があれば何をするのですか。一人でいるのに、一人でいる両班が絶対的権限があって何をするのですか。誰もいないのに。一人で絶対者になっていれば知識があって何をするのですか。神様の本質が何かという問題が重要な問題です。それが愛です。「ため」になれという愛ではなく、「ため」になろうとする愛です。
全知全能なる神様も、真の愛の前にはどうすることもできません。大韓民国の大統領がどんなに素晴らしいとしても、真の愛の場ではどうすることもできません。妻を本当に愛するというときは、妻の前に敬拝したいですか、したくないですか。敬拝しても足りません。宇宙の中で偶然にも、私がこうして心から愛してやまない妻がどこから来たのでしょうか。その人がいないと考えたら、四肢がすべて麻痺します。実際にいないと考えるときは大変です。しかし、いるのでどんなにいいですか。いいので大統領でも仕方なくお尻を天にして「思慕する人よ、愛し給え! 愛します!」と言います。そんなとき、小柄な女性が座って見るとき、気分がいいでしょうか、悪いでしょうか。
神様がどんなに全知全能だとしても、愛を一人で思いどおりにできません。「全知全能だから愛も思いどおりにできるだろう」と言うかもしれませんが、それなら問題が大きいのです。愛の対象が必要ないという論理に逢着するのです。ですから神様も絶対的な中心存在として自分自身の愛、神様的愛に対する刺激と喜びを感じるためには、愛の対象が必要なのです。
神様自身も相対が必要なのです。神様も愛を一人では成せません。私が人もいないのに一人で立って、「ああ、きょうは本当にいいな」と、このように熱心に語ったなら、それが筋道に合い環境与件にかなうようになっているでしょうか。どんなに全知全能なる神様でも、一人で「うれしい、うれしい、ああ、私の愛がいい!」と踊りを踊れば、それは何ですか。それを知らなければなりません。神様も愛を成すためには一人では駄目です。相対を立てておかなければ刺激的な愛を感じることができません。これが問題です、これが。
世の中に存在するものの中で神様と相対になる力はありません。神様は全知全能であり、絶対的だからです。または永遠不滅の自存の方が神様です。そのような神様が願われるものがあるとすれば何だと思いますか。お金でもなく、知識でもなく、権力でもない、その何を願っていらっしゃるのかというのです。神様が絶対に必要とするものがただ一つあります。それは人間に絶対に必要なものであると同時に、神様にも絶対に必要なもので、真の愛です。