第一章 神様の本体 : 五 法度の中での全知全能である : 1.原則的基盤の上での全知全能である

 神様が天地万物を創造するようになった動機とは何でしょうか。根本に入っていくのです。神様はお金が必要ありません。お金のためでもありません。知識のためでもありません。知りたくて造ったのではありません。何かの権力のためではありません。全知全能で遍在されるその方は、知らないことがありません。知恵の王であり、能力の王であり、黄金の王ではないですか。ダイヤモンドもいくらでもつくることができるでしょう。神様にはダイヤモンドが必要ありません。いつもあるのにそれが必要ですか。ないから必要なのでしょう。また知識というのは……。この宇宙のすべての原理原則を中心として運動し作用する一つの構成体を全部コントロールすることができる法理、法度を造られたその知識に比べれば、今日の科学者たちがどんなに研究しても、自然界の法則一つ発見してそれでもって博士になったと威張ったりして、そんなものは何でもありません。芸術もそうなのです。芸術というものが他のところにあるのではなく、全部自然から学んできたものです。自然にはないものがないのです。

 神様は全知全能なる方なのに、力がなぜ必要でしょうか。宇宙を動かすことができる主体であられるのに、そうではないですか。力の大王だから力は必要ないのです。歴史上の英雄豪傑が偉いと言っても、歴史において大王を統治した君主、帝王たちが過ぎ去りましたが、彼らはみんな神様の権威のもとで踊りを踊っていった人たちです。神様は、私たち人間が必要とするお金も知識も必要ありません。

 神様自身は絶対的な存在です。全知全能なる方です。遍在されます。その方には知らないものがなく、できないこともありません。そのようにすべてのものを備えた主体として絶対的な位置にいらっしゃる神様において、何が必要でしょうか。神様が絶対的な主体だとしても、主体自体が主体となると同時に相対となりたい心もなければならないのです。なぜそうならなければならないのでしょうか。人には東だけ必要なのではありません。東があれば西が必要であり、東西があれば南北が必要であり、南北があれば前後、上下が必要であり、一つの球形を成すことを願うのです。ですから宇宙は球形を標準にして動くのです。

 さあ、あの星の国にはどんなものがあるのでしょうか。ダイヤモンドの星があるでしょうか、ないでしょうか。全知全能なる神様が宇宙を造ったのならば、ダイヤモンドの星一つだけ造ったでしょうか。

 そう、神様が一番好きなものは何ですか。学者、有名な学者ですか。有名な学者も大したことはありません。自分が何を研究して何をどうしたとしても、神様が造ったすべての自然界のある公式とか原則を発表しただけであって、それ自体を造ったのではありません。神様は、学者も好きではないというのです。その次は大統領ですか。レーガン・アメリカ大統領を神様が好まれますか。世界大統領ですか。宇宙大統領なる方が神様です。全知全能なる絶対者なのに何が必要でしょうか。権力も神様は好まれません。その次には何ですか。お金ですか。口にもするなというのです。

 神様は全知全能なる方です。憤って一度地面をけられるならば、めちゃくちゃにすべてが崩壊してしまうのです。大統領や世界の偉大な人たちも、一度叫んだならば、もれなくすべて流れていってしまうでしょう。その方に権力が必要でしょうか。神様の前には権力は必要ありません。それはちんぴらが好むものです。誰が好むのかと言えば、悪魔が好むのです。

 神様は、天地創造をなぜしたのでしょうか。「力を誇ろうと、全知全能性を誇るために一度造ってみたのだ」と言えばすてきですか。そのようなとき、力によって生まれたものたちが「神様ありがとう。力でもって造ってくださって!」と、このように有り難いと言うでしょうか。神様が知恵が多くてお前を造ったのだと言うとき、気分はいいですか。能力や知恵で造ったならば私の喜びと何の関係があるでしょうか。それが神様の能力でしょう、私の能力ですか。神様の知恵でしょう、私の知恵ですか。私を見れば無気力この上もない私なのに……。このように考えるのです。それで問題になるのです。

 今日、キリスト教で「父なる神様、全知全能の神様」と言いますが、全知全能なる神様も原則的基盤の上での全知全能であって、無原則的基盤の上での全知全能ではありません。自分勝手にする神様ではありません。自分が法を立てたならば、永遠なる方が制定した法は永遠なものです。自分が立てたものを自分勝手にしないのです。それに順応して越えていこうとするその神様の権威、それが驚くべきことなのです。公義を立てるにおいては、すべて天理の原則にかなう公法を立てるにおいては、絶対に神様がまず踏んで越えていったのちに万民が従うようになっており、宇宙が従うようになっているのであって、それを二番目にすることはできないのです。そのような人間創造の理想的基準があるのです。

 神様一人ではできないのです。今日、既成教会の牧師は「全知全能の神様が、創造能力をもった神様がいつでも思いどおりにできるでしょう」と言うかもしれませんが、とんでもありません。天地すべての存在物は法則、大原則によって作用するのです。いくら神様でもこの法則を破壊して行動することはできないのです。この国の大統領でも憲法を中心として制定したすべての法、立法を通じて制定した法を重要視しなければならないのです。そのようにしていないので、今騒いでいるのではないですか。

 このように言えば少しおかしいですが、神様が愛をしたいならばつくればいいでしょう、なぜ愛をつくれなかったのでしょうか。それは思いどおりにつくったならば神様が立つ位置がなくなるからです。それでつくらないのです。それはつくれないのと同じなのです。何のことか分かりますか。「ええ! 神様は全知全能なのにつくれないとは……」。そうなると二元論や多神論という結果に陥ってしまうのに……。しかし、疑えばそうです。

 最近人々は神様の属性について、神様は絶対的であり、全知全能であり、遍在し、唯一無二であり、その次に永遠不変だと言うのです。しかし、絶対的で何をするのですか。唯一だとして何をするのですか。神様が唯一なのと私たちとは何の関係がありますか。大きな問題です。全知全能ならば何をしますか。何の関係があるのかというのです。永遠不変ならば何をしますか。神様自身にはいいですが、私たち人間には何ら関係がないならば、それは邪悪なことになるのです。必要ないのです。盲目的な信仰をすることができないというのです。このようなことを全部分別してあげなければなりません。

 神様は知らないものがありません。全知全能であられ、全権者であられ、遍在されるというのです。それが私と何の関係がありますか。私と何の関係があるのかというのです。「ああ、全権があるので私を支配するのにいいですね、どこでも遍在しているので私を監視するのにいいですね、知らないものがないので私を精密に分析して身動きできないように造ったのですね」と、神様が私を全知全能で支配されるとすればいいことがあるでしょうか。

 神様は天地を何をもって主管しますか。法で主管しますが、その法も愛で治める法です。そして治める方向を後押しするために宇宙の法も存続するというのです。それで神様は人間創造をなぜしたのかといえば、愛が恋しくてです。一人でじっとしていればいいのに、何のためでしょうか。刺激的で衝動的な愛が必要だからです。