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第二章 メシヤと「真の父母」 : 第二節 メシヤは「真の父母」 : 二 メシヤの顕現過程 |
今まで数多くの宗教が出てきていますが、その使命とは何かというと、一人を探そうということです。数多くの宗教が救いを得て何がどうだと言いますが、世界的によりすぐって、最高の位置に上がり得る人、その位置を超えたその一人を探そうというのです。その一人を立てようというのです。
このように、すべの宗教の中心は一人ですが、その存在とは誰かというと、メシヤというものです。言い換えれば、すべての宗教が一人を探してくるのに、その一人の中心存在が誰かといえば、メシヤ、救世主というものです。
メシヤが来るのに、その場に一度に来るのではありません。七年路程を経なければなりません。メシヤは男です。そのメシヤが来て、サタン世界で血統的な関係を超越して、サタンに勝たなければなりません。
勝ったその男を中心として、家庭的にも勝たなければならず、氏族的にも勝たなければならず、民族的にも勝たなければならず、国家的にも勝った基盤をつくっておかなければならないのです。男一人だけをもってしてはいけません。すなわち、サタン世界よりもましにならなければなりません。サタン世界に属した家庭より優位に立たなくては、メシヤは彼らを率いることができる立場になれないのです。
サタン世界の最高の基準とは何かというと、国家というものです。サタンは、いつも国家を中心として反対してきました。サタンは、国をもつために、その国を中心として個人的にも天をたたき、家庭的にも天をたたき、氏族的にも天をたたき、民族的にも天をたたいたのです。いつもこの国を中心として、天が築いてきた道を妨害してきたのです。
結局、反対されて迫害されるのは、劣っているためであって、勝っているなら、かえって迫害することができ、支配することができるのです。人間が堕落したことによって、この世界はサタン世界になったために、この世界には、サタン側の個人もいくらでもいるのであり、家庭もいくらでもいるのであり、氏族もいくらでもいるのであり、国家もいくらでもあるのです。そうですが、天の側はいないのです。個人はいますが、その基準に上がった家庭や、氏族や、民族や、国家がないのです。
結局、メシヤ個人として家庭に勝ち、メシヤ個人として氏族に勝ち、メシヤ個人として国家に勝ち得る基盤がなくては、一般の人が上がる道がないということです。
それで神様は、この地上にメシヤが来るようになれば、メシヤに従って共に上がり得る圏を、個人から家庭を経て準備しておきました。それがイスラエル民族です。そして、その思想が選民思想なのです。
しかし、イスラエルの国は、まだここに上がることができませんでした。線に引っ掛かったのと同じです。それゆえ、選民の希望とは何かというと、この線を越えることです。この線を越えるべきであって、越えなければ大変なことになるのです。ですが、この線を越えようとしても、自分たちだけでは越える道がありません。
ですから、神様はイスラエル民族にメシヤ、すなわち救世主を送るという約束をしたのです。神様がこれを国家的に越えるために、数千年間準備されたのがメシヤです。メシヤを送るということを約束されたのです。
それで、イスラエル民族の前にメシヤが来るようになれば、そのメシヤを中心として死ぬとしても共に死のうという立場になって、サタンが離そうとしても離すことができないように完全に一つになれば、そこから個人的に接ぎ木し、家庭的に接ぎ木して、氏族的に接ぎ木して、民族的に接ぎ木して、国家的に接ぎ木して、彼らをみな一時にここまで引き上げることができるのです。
それゆえ、この世界には選民思想がなければなりません。そうして、神様が選んだ民族を中心として、神様が選び得る国家を形成しなければならないのです。選民がいるという言葉は、神様がいるという事実を証すものなのです。メシヤを送るという預言があるということは、このような原則で見るとき、神様がいることを証すものです。
では、我々がメシヤを必要とするようになったのは、何の目的があってでしょうか? それが問題です。堕落することによって、我々は偽りの父母をもちました。神様と一つになった父母がなくなったということです。神様と一つになり得る父母の位置を、我々にもってきてくれる方がメシヤです。これが第一です。
第二は何かというと、我々を再び生んでくれるのです。結局は、我々の体にサタンの血があるから、その血を抜いてサタンの息子、娘でないという立場で、我々を接ぎ木して再び生んでくれるということです。
第三は何かというと、メシヤは、サタン、悪魔を僕として使うことのできる人に、我々人間をつくり上げるということです。すなわち、我々人間たちの前にメシヤが来て、我々をしてサタンを屈服させて僕にし得る、サタンを屈服させて彼を処断し得る資格者にしてくれるということです。
結局、人間が堕落したために、第一は父母を失い、第二はサタンの血を受け、第三はサタンの支配を受けるようになったのです。ですから、それを復帰するためには、逆さまに上がっていかなければなりません。
原理を見ると、信仰基台があり、実体基台があります。信仰基台を成して実体基台を成してこそ、メシヤを迎えることができるようになっているのです。これが原理なのです。それゆえ、信仰基台と実体基台まで成そうというのです。
メシヤは、それ自体が信仰の目的であり、希望の目的であり、愛の目的体です。信仰と希望が成された目的体です。では、メシヤを主として、目的を完成したその時には、何だけが残るのでしょうか。目的がみな達成したので、愛だけ残るしかありません。
それゆえに、最後に残るのは愛であると言いました。その愛は、信仰の完成実体を通じた愛であり、希望の完成実体を通じた愛です。その愛一つを主にした代表者として来られる方が、メシヤだということを我々は知っています。