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第一章 「真の父母」とは : 第二節 真の起源 : 二 真の起源 |
「真」ということは、個人に限ってだけあるのではありません。全体を越えに越えて適用され、全体を越えに越えて価値的な因縁を結ぼうとするのが真なのです。真は、誰もが好み、誰もが探すものであるために、どこにでもなければならないというのです。
我々は、個人の目的のために集まったのではなく、全体の目的のために集まりました。それゆえ、自分個人より家庭のために、家庭より民族、民族より国家、国家よりまず世界のためにあるべきです。また、自分個人が真になる前に、家庭が真になるべきであり、さらには国家と世界が真になるべきです。
人間は、自分個体としては、いかなる福の動機にもなり得ない、復帰路程途上に立っているのです。では、その動機とは何でしょうか? 真です。人間が真なる姿を成すには、すべての生死禍福の根源であられる神様と関係を結ぶべきです。その関係を結ばなければ、人間個体内では真なる姿を成し得ません。
真は、必ず神様が中心となるべきです。それで人間は、全体的に収拾して、主管し得る決定的な基盤をもつようになるとき、真が成されるのです。その基盤をもつことができなければ、「真」という名詞は成立し得ないということを知るべきです。
真の起源は、神様です。神様がいらっしゃることによって、真が成されます。神様が離れるようになるとき、真も離れるようになります。そこには真ではない、悪の起源が生まれるのです。
真があってこそ、真なる結果をもたらすことができます。言い換えれば、神様がいらっしゃることによって、神様の願いが成され得るということです。それゆえ、「真」、「善」という名詞は、人間を主にして立てられたのではなく、神様を主にして立てられたのです。
このような観点から見ても、真は、人間が勝手に考えることができるものではありません。すなわち、堕落した人間が勝手に管理する、そのような位置に従属しているのではなく、真が我々を主管している、ということを知るべきです。それゆえ我々は、いつも真の前に屈服すべきです。真を立てて、そこに順応すべきです。皆さんの現実的な生活や、あるいは良心的生活を探ってみても、真は完全に天に属しているという事実を否定する道理はないでしょう。
我々は、祈るとき、「真なる神様、天にいらっしゃる聖なる神様」という言葉を、漠然と習慣的に言う場合が多くあります。しかし、本当の意味での真は、今までありませんでした。それがなかったので、真として連結し得る起源は、人間たちが歩んできた歴史の背景にあるのではなく、これを超越した位置にあるのです。そこから出発するのです。すなわち、その起源は、環境を超越した位置から追及しなければならないので、宗教は、人を中心として信じていくのではりません。
もちろん、教祖を中心として信仰の標準を立てる人たちもいます。しかし、それを超越した立場から神様を介在させ、真の追及してくる人たちもいるのです。これを見るとき、歴史過程を経てきた数多くの人間の生活路程においても、また、現実社会においても、真の起源をもち得なかった、ということです。
人間自体に連結された位置からは、真の起源を備えることはできません。真は、必ず絶対的基準です。それゆえ、絶対者あるいは神様という問題がここに登場せざるを得ません。それはなぜそうなのでしょう? 今まで地上に真の愛がなかったので、そうなのです。それゆえ、真を指向しながら生きる人自体では、真の動機になり得ません。その動機は、神様でなければなりません。必ず宗教や、人類歴史上において、最後の重要な分岐点に行っては、神様が登場します。絶対者が必ず必要になるのです。
哲学が追求する目標、すなわち、真理を通じて最後の目標について追求していったり、あるいは、存在の起源を掘り下げていっても、必ずここには神様という問題が介在し、超越者、絶対者という名詞が介在するのです。それはなぜそうなのでしょうか? 絶対者と関係を結ばなくては、どんな学問や、存在価値も、その起源が解決できないからです。それで人間は、深刻な場では必ず、真を通じて解決しようとしたのです。
このような事実を、我々は否定することができません。それゆえ、真の起源は、人間だけでなるのではなく、必ず絶対者、神様が介在すべきなのです。真を主張する宗教は、神様を離れては考えることができません。真を主張する人倫道徳も、神様を否定できません。
ですから、孔子も「順天者は興り、逆天者は滅ぶ」と言いました。天を中心として言った言葉です。必ず天を介在させなければなりません。その興亡盛衰の起源が、人間自体にあるのではなく、天によって左右されるのです。このような事実について見るとき、天が動機になり得る起源が備えられなくては真になり得ないので、この地に生きている人類の中で、真なる人がいるかということが問題になります。
では、真がとどまり得る場所とはどこでしょうか? もちろん、天を起源として真の位置を地上に立てようとされるでしょう。これは神様の願いです。それで、どこにとどまるか、ということが問題になります。我々の生活の周辺にとどまるのです。それでイエス様も、「天国はあなた方の中にある」と言われたのです。真なる国の天国は、心の中にあるのです。何ら邪心のない、深々とした谷に位置しているのです。
我々の心の基礎を分析してみると、知、情、意になっています。その中でも、どこにとどまるのでしょうか? 知、情、意のうちで何が根本であるかというとき、意でもなく、知でもない、情です。
皆さんは、自分に一番貴いものがあれば、それをどこに置きたいですか? 自分だけが知っている所に置きたいでしょう。そこは誰にも触れられず、関与できない、すなわち自分だけが絶対的に管理し得る所です。そこはどこでしょうか? 心の深い所です。心の深い所に埋めておくのです。「ここであれば安心だ」と言える所に置くのです。すなわち、人々がよく貴重品を入れておくたんすのような所に置くようになるのです。このような点から見るとき、真がとどまり得る所は、自分の心の深い位置になるのです。