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第一章 「真の父母」とは : 第五節 「真の父母」とは何か : 三 「真の父母」は人格の実体 |
歴史上の聖賢たちの中で、「私は人類歴史において、人間たちを代表して、心と体が闘わず完全に統一を成したので、私を見習いなさい」と言う人がいましたか。学校で倫理生活について責任を受け持たれた教授たちも多いのに、何が重要かというのです。
体が重要ですか、心が重要ですか。心も重要で、体も重要です。もっと重要なことは、私の心と体の統一圏です。それが重要なことです。それが駄目な人は、いくら世界が統一されたとしても、その世界と何のかかわりもない人です。
今皆さんは、心が違い、体が違います。では、これがいつ一つになるのでしょうか? 今まで、人類歴史路程において、「心と体の闘い、これを統一させる」と言える人が出てこなかったのです。
パウロのような人も嘆息したでしょう。「わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ……わたしはなんと惨めな人間なのだろう。だれが、この死のからだからわたしを救ってくれるのだろうか。わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな」(ローマ7/22〜25)。正にそう思ったのです。主イエス・キリストの中にいる神様の愛によって解放されるのです。
心と体が一つになれない原因はどこにあるのでしょうか? 神様はどのような方かといえば、この宇宙の根本となる縦的な愛の主体です。そのおもりが地に降りてくるようにするには、神様お一人では駄目なのです。いくら神様といっても、愛を下ろすには、水平線でこの基準を引き出すことのできる力が必要です。
電気が強く、マイナス電気が地上近くに来るようになると、近い所で雷が落ちるのです。そうではないですか? 降りてこなければなりません。高い所にあっても、降りてこなければなりません。同様に、高い愛が降りてくるには、地上にマイナスの愛がまず生じなければなりません。マイナスの愛がまず生じたならば、プラスの愛は自動的に生じるようになっています。それがペアになっています。
作用するこの世界には、必ず「対応」と「反作用」があるのです。互いに対応し、互いに作用する反面、反作用があるのです。一般の人たちは、「この反作用は、対応する力の作用に反対する」と見ますが、そうではありません。反作用というのは、対応した存在を保護するために作用します。こうしてこそ、理論的に善悪のすべてが解決するのです。「善を中心として、悪というものに対して保護すべきである」という論理を見いださずには、善悪対決の歴史を処理する方法はあり得ないのです。
神様は、どこを通じて往来するのでしょうか。縦的な愛が設定されなければなりません。その縦的な愛が縦的な価値をもつためには、横的な基盤が築かれたところに入ってこなければなりません。
男女もそうではないですか。皆さんが分別がない時は何も分かりませんが、大きくなると、女も世界をもとうとし、男も世界をもとうとします。ですから、そのように世界をもとうとするとき、どこへ行って会わなければならないでしょうか。すっかり大きくなって、成熟して、会わなければならないのです。そのためには、「世界が自分のものである」と言える位置まで出なければなりません。
「これを占領しなければならないな」と言いますが、占領するには、自分の力をもってしてはできません。愛でなければ駄目なのです。その愛の力があるために、男にも女にも世界征服のための理想と夢があるのです。皆さん、世界全部を自分のものとしたいでしょう? 天があれば、見えない世界があれば、その見えない無限の世界までも自分のものとしたいでしょう? なぜそうですか? 縦的な欲望、横的な欲望があるためにそうなのです。
横的な欲望は、横的な世界である地球星全体を自分のものにしようとし、縦的な欲望は、この宇宙を自分のものにしようとします。分かりますか。体は制限されています。地球星の限界線を脱することはできません。しかし、縦的な世界は、いくらでも大きくなります。
そのようなことを見るとき、心の位置を代表し得る父が神様であり、体の位置を代表し得る父が、堕落しなかった、真の愛を中心とした人類の始祖であったということです。体の位置を代表する父が、人類の始祖になるべきなのです! 分かりますか? (はい)。
統一教会において、歴史時代には分からなかった事実を探り出して、遣う言葉が「真の父母」だというのです。(アーメン!)。ですから、横的な「真の父母」の位置が、本来創造した理想観として見た神様の息子、娘の位置だったというのです。アダム・エバの位置だったということです。ですから、神様とは何でしょうか。体のようなものがアダム・エバなら、縦的な心のような父の位置にいるのが神様です。
心のような神様と、体のようなこの方が一つになるには、何によって一つになるのですか。力ではなく、知識でもなく、権力でもありません。何ですか? (愛です)。愛で一つになるのです。
我々の心的な人格、体的な人格が本来一つになり得る原則的モデルに似たのが私個人であるために、原則的な根本を訪ねてみるときに、体のような父がいなければならず、心のような父がいなければならないのです。そこで、心的父の位置が神様の位置であり、体的な父の位置が人類の始祖になるのです。
では、人類の始祖として心的父である神様は、どこで一つになりますか。真の愛を中心として、愛の球形の中で、核の位置で一つになるべきなのです。縦的なものを中心として、男女は訪ねていくのです。