御言の図書館のサイトです。御言をはじめ様々な書籍を閲覧できるようにしてあります。
第九章 「真の父母」に関係した指示のみ言 : 第一節 1991年7月1日のみ言 : 三 「真の父母」侍衛と世界国家 |
今、御父母様に侍らなければなりません。侍衛−−囲いを張って侍るということです。包囲という言葉があるではないですか。「真の父母」侍衛、「真の父母」に侍らなければならないのです。ですから、写真が必要なのです。ですから、旗が必要なのです。家庭でいくら忙しくても……。
先日、あの「ソウルの土鍋(注:テレビのドラマの題目)」で、息子が、死んだ父の写真を掛けておいて頼みの話をするのを見て、「統一教会の信徒たちがすることをしているな」と、そんな思いがしたのです。父に、どうのこうの言いますが、それが本当に素晴らしかったのです。写真を見てですよ。それは祈祷です。「真の御父母様、こんなことがあり得ますか? こんな事情がみなこうなので、これをサタン世界がそうしているので、無念で悔しいのです」と言えば、「おお、そうか! そうか!」と、そう言うようになっているのです。分かりますか。侍らなければならないのです。
まず写真に侍らなければならないのではないですか? 愛するなら写真を持って歩くでしょう? それによく侍る人が実体を迎えるのです。そうすれば福が来るのです。先生の福がどれほど大きいか分かりますか? 私は福を受けた王のような人なのです。私によく侍れば、福を無限に受けることができるのです。
私の言葉に対して食い違うと、くずの中のくずになります。天下において今、そのようになっているのです。天の霊界に行ってみなさい。地上においてもそうです。霊界が今、全部合徳(一体)になることができるということです。
今、御父母様に侍らなければなりません。おじいさん、おばあさん、お父さん、お母さん、どの家もみんな写真を、息子の家、娘の家に持っていって掛ければいいのです。違いますか? 誰が何と言いますか? 「私が好きで掛けるのに、婿がどうのこうの言うのか? 孫が何だかんだ言うのか? どけ! お前の家を福を受けられるようにするためのものであって、滅びろというのではない。この方は今まで70の生涯をそのように迫害を受けて、四方から射る矢を受けたが、生き残ったぞ。何百回死ぬような環境でも残り生きてきたのだ。神様が守ってくださり、運があって、福があるために、生き残ったのだ。その方の写真を掛ければ、その懐に抱かれたようになって、その影に避難所のようにいることができる環境になるのに、何を言うんだ! 福を受けるのが当然なのに」と、一言言えば終わるのではないですか?
おじいさん、おばあさんを遣わせて、父方のおばさんの家、母方のおばさんの家にもできるではないですか? おじいさん、おばあさんがいなければ、五代前のおじいさんの下の五代の孫を全部集めておいて、一大演説をしなさい。「きのう、夢の中でおじいさんが現れて、このように教えてくれました!」と言うのです。そうかといって、うそは言わないでください。
そのように祈れば教えてくれるのです。おじいさんが現れて、「おい、このようにしろ!」と教えてくれるのです。「五代前のおじいさんが、このような顔で、このような表情でした。私は、会えなかったおじいさんがこのようにしてこそ、我々一家が福を受けるのだと、きょうお祝いの日に、どうか文先生の写真を奉って、統一教会の旗を立てなければならないと通告するので、皆さんしなければなりませんか、しなくていいですか? 私が解放させて助けてあげるべきであって、そうでなければ皆さんのおじいさん、おばあさんが死にます!」と言うのです。その運動をしなければなりません。
写真を掛けた人たちは、我々の人たちになるのです。そうですか、違いますか? 何か分からなくてもいいです。「原理」を「理原」と言ってもいいです。「東」を「西」と言ってもいいです。方向が分かって何をしますか? 愛が分かればいいでしょう。息子、娘を生めばいいではないですか。嫁たちが東西南北をもっとよく分かって、八卦を解いて指図をしたとしても、息子を生めなければ滅びるのです。分かりますか?
「真の父母」の侍衛とは何ですか? 世界国家。どの国が国家の命令を通じて、「我々統一教会の文先生を、我が国に善なる代表者として迎える!」と言えば、福を受けるのです。国が一編に復帰されるのです。分かりますか? 国が復帰されて入ってくるのです。一族が復帰されて入ってくるのです。
選挙のとき「当選しようとするなら、文総裁が生きている限り、行ってサインをもらってこなければなりません!」と言うようになるのです。「写真をもう何十年も前から掛けているのに、どうしてその写真の前で私がうそを言いますか!」と言えば、野党、与党、そこに統一党が生まれるのではないですか? 違いますか? 自然屈服がみなできるのです。
いつもは、このような話はしてあげないのです。訪ねてきて祭祀をしても、してあげないのです。してあげるだけでも過分なのに……。これは、みな必要な言葉なのです。