第一章 「真の父母」とは : 第五節 「真の父母」とは何か : 一 二つの石板と「真の父母」

 イスラエル民族を荒野で導くとき、火の柱と雲の柱があったでしょう? 昼に導くのが雲の柱で、夜に導くのが火の柱でした。それは何を意味するのでしょうか。男女を代表して終わりの日には父母が来て、イスラエル民族から侍られるのを象徴的に見せてくれたのです。この火の柱と雲の柱の導きに従わない人は、みな滅亡するのです。
 また、イスラエル民族が荒野に出て四十年間さすらい、方向をつかめずにその民族が滅亡するのを心配して、モーセをシナイ山に呼び上げて、四十日断食をさせました。そうして与えた二つの石板が何かというと、アダム・エバ、「真の父母」を象徴したという事実を知るべきです。
 契約の箱の中に、どうして二つの石板を入れたのでしょうか。二つの石板は、神様のみ旨を終結できる中心としてのアダム・エバを象徴したのです。それで、契約の箱の中に入れたのです。

 我々の願いとは何でしょうか? 神様は縦的な父母であり、アダム・エバは横的な父母ですが、縦横の父母が一つになって喜び得る場において、愛され得る息子、娘になるのです。ところで、そのようにできなかったのが恨です。そうでしょう? そのような愛を一度受けてみたいという熱望をみなもっているというのです。宗教も全部そのようなものです。
 縦的な神様と横的な面で一つになり、愛することのできる父母がこの地上にいたでしょうか? いませんでした。人類の始めの先祖が堕落したために、偽りの父母になりました。アダム・エバが偽りの父母になったために、そのような父母がいませんでした。それで、「真の父母」が出てこなければなりません。「真の父母」が歴史上に出てこなければならないのです。
 そのような歴史的使命を代行する一つの名詞を被せて呼ぶ、その存在とは誰でしょうか。これが「救世主」という存在であり、「メシヤ」という存在です。救ってあげるには、何を救ってあげるのですか。体を救ってあげるのではなく、理想的な愛の願いを成してくれるのです。
 そうするには、どのようにしなければならないでしょうか? その救いを成してあげるには、メシヤはどのような存在として来なければならないでしょうか? 間違いなく、「真の父母」として来なければなりません。メシヤは、「真の父母」として来なければなりません。イエス様を、キリスト教ではメシヤだと信ずるのです。救世主として信じます。

 では、「真の父母」として来るには、どのように来なければならないでしょうか? 一人では駄目なのです。真なる父に代わり得る、一人の男として出てこなければなりません。今まで、数多くの宗教は、一人の男を探してきたのです。男の中でも、生活をよくする男を探してきたのが儒教の教えだと見ることができ、霊界を主にした男を探してきたのが仏教の教えだと見ることができるのです。
 では、キリスト教とは何でしょうか? 神様の息子になって、愛する家庭をつくろうというのです。もっと具体的な内容をもって来たのがキリスト教です。それゆえ、神様の前において「私はひとり子だ」とイエス様が言われたのです。
 ひとり子が出て来たのに、ひとり子が一人で暮らしたなら大変です。ひとり女がいなければなりません。それで、ひとり女を探して、神様を中心として、ひとり子とひとり女が互いに好む場で結婚しなければならないのです。それで、神様が縦的な父母として喜び、その神様の一人息子と一人娘が横的な父母として喜び得る新郎新婦になって、地上で息子、娘を生まなければなりません。そうしてこそ初めて、一族が広がり始めるのです。そういうことではないですか?

 それゆえ、イエス様においてイスラエルの国に背いてでも、ユダヤ教に背いてでも一番必要としたものがありましたが、それは何だったのでしょうか? 正に女です。男の前に女がいなくてはなりません。
 イエス様は、そのみ旨を成せなかったために死んでいきながら、「私は新郎であり、あなた方は新婦だ」と言ったのです。こうして、キリスト教では二千年間新郎であられるイエス様を待ち、キリスト教信徒たち新婦になろうと、もがいてきたのです。
 その標準とは何でしょうか? それがメシヤですが、真なる父母の位置をもって合わせるのです。それが子羊の婚宴です。