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第七章 「真の父母」を中心とした生活 : 第四節 民謡の中の啓示 : |
皆さんが神様に侍り、「千年、万年も生きたいものだ」と言うならどれほどいいでしょうか? 今日、我々の童謡にもある「月よ、月よ、明るい月よ、李白が遊んでいた月よ、あそこ、あそこ、あの月の中にかつらの木が刺さったから、玉の斧で突き刺して引き出し、金の斧で切り取って整え、わらぶきの三間の家を建てて両親父母を迎えて……」と、このような良い言葉です。
ところで、両親父母がどこにいますか。その父母が、自分の欲のための父母なら、みな流れていきます。天地の大道を明らかにして、伝統を植えておくことのできる両親父母がどこにいますか。今日、我々の民謡にある、そのような歌の節回しに合うような、その道を世界の前につくっておいて死んでみようというのがレバレンド・ムーンの生涯です。
今日、宗教指導者たちがひれ伏して祈祷して、「福を受ける」と言いますが、私は福を受けようとして祈ったことはありません。私一人が祭物になって……。旧約時代は、万物を立てて神様の人たちを探すための時代であり、新約時代は、息子、娘を犠牲にして父母を探すための時代であり、成約時代は、今まで父母の家庭を犠牲にして神様を解放するための時代です。本然の父母をこの地上に迎え、その方と千年、万年暮らし……。
韓国の童謡の中で「月よ、月よ、明るい月よ、李白が遊んでいた月よ……」というのがあるでしょうか? かつらの木が刺さったから、何どうのこうの、両親父母を迎えて千年、万年生きたいものだというのです。それがみな、韓民族の啓示的な話です。天の父母を迎えて千年、万年生きたいものだという、その歌を思うたびに、私はいつも胸の痛む心を忘れることができません。
皆さんは、韓国人として生まれたことを絶対に嘆かないでください。過去には、韓国人として生まれたことを嘆いたでしょう? 「はからずもこの貧しい韓国の民、五千年歴史を過ぎてきたと誇るが、あのわらぶきの三間の家に生まれた」と言うのです。
また、歌うのを聞いてもそうです。「月よ、月よ、明るい月よ、李白が遊んでいた月よ、あそこ、あそこ、あの月の中に、何どうのこうの、わらぶき三間の家を建てて、何どうのこうの、両親父母を迎えてどうのこうの……」。わらぶきの三間の家を建てて、千年、万年生きる? 私はそのような民謡を聞くようになるとき、気分が良くありません。やっとわらぶきの三間の家ですか? そこに何の民族の願いがありますか?
ですが、「わらぶきの三間の家を建てて、両親父母を迎えて、千年、万年生きたい」と言うとき、その両親は何かというと、「人間の理想的な父母である」と言うことができるのです。キリスト教でいえば、再臨思想と通じるのです。万民、万国を通じて見れば、救世主思想と通じることができる、このような内容になっているのです。
「ああ、あの日、あの面、これ、これ……」と、こう言ってはいけないのです。その面がどうであっても、「千年、万年生きたい」と言わなければなりません。我々の童謡にもあるではないですか。「月よ、月よ、明るい月よ、李白が遊んでいた月よ、あそこ、あそこ、あの月の中にかつらの木が刺さったから、玉の斧で突き刺して引き出し、金の斧で切り取って整え、わらぶき三間の家を建てて、千年、万年」何を迎えて? 両親父母を迎えて、それは民族的な願いをたたえたのです。
それゆえ、「真の父母」の思想があるのです。「千年、万年生きたい」と言うことができる愛が、「真の父母」から……。分かりますか? 両親父母を迎えて。
皆さん、「真の父母」という言葉を聞いて、神様のチャンピオンの権威をもった男性を代表し、女性を代表した、そのような表象的な人物が「真の父母」だと知っていれば、「真の父母」の息子、娘の権威も、その影ぐらいにはならなければなりません。サタン世界で拾って食べた習慣性をそのままもって、欲の包みをそのままもって、この統一教会に入ってこようとしてはいけないのです。既成教会とは違います。愛の祭壇を集め、愛の矢をねらっていきながら、生死の圏の勝負をすべて決める所がここだというのです。
神の国に行き、神様が直接あの空中で審判するのではありません。ここに座って、我々の一日一日の生活を審判しています。神様に侍ることによって、文総裁と共に神様と苦楽を共にする生活を経たために、波乱万丈な曲折と、艱難時代に滅びずに死ななかったのです。神様が死ぬことができますか? 生き残ったのです。
そうして、今日世界的覇権をみな処理して国に帰ってきて、国が二つに分かれているので、これを統一国にしなければならないというのです。統一国をつくるのと同時に、皆さんの国を立てなければならず、民を立てなければならず、氏族を立てなければならず、家庭を立てなければなりません。
知恵深い人は、生命を尽くしてわめいてでもこれに(板書される)、乗って越えなければなりません。分かりますか? 統一教会の信徒たちは、御父母様がすべての蕩減の使命を果たしたために、今は簡単なのです。本当に神様を知り、本当に真の御父母様を知り、本当に真の妻と真の夫を知り、本当に真の息子、娘を知れば、みな終わるのです。
その息子、娘を知ろうとするので、妻と夫を知ろうとするので、戦って勝たなければなりません。彼らを愛さなければなりません。愛してサタン側的兄弟、十二弟子、百二十門徒を解放することによって、千年、万年生きたいほどに自分の息子、娘とを愛することができるのです。
「月よ、月よ、明るい月よ、李白が遊んでいた月よ、あそこ、あそこ、あの月の中にかつらの木が刺さったから、玉の斧で突き刺して引き出し、金の斧で切り取って整え、わらぶきの三間の家を建てて、両親父母を迎えて千年、万年生きたい」。それがみな、韓国の民が選民権を受け継ぐことができる、選民が歌うことができる、永遠をかけてたたえる祈りです。
両親父母を迎えて何をするのですか? 千年、万年生きるのです。どこでですか? わらぶきの三間の家で。わらぶきの三間の家とはどこだか分かりますか? どん底から上がらなければなりません。わらぶきの三間の家の家庭から迎え、氏族を編成し、氏族から民族を編成し、民族を編成してこそ王権が生まれるのです。国を探さなければなりません。
既に世界と国では、先生が勝利の立て札を持って、垂直の立場にいます。先生が横に行くことはできません。垂直の立場に立っているからです。先生を中心としては、個人的垂直、家庭的垂直、氏族的垂直、民族的垂直、国家的垂直、世界的垂直、天宙的垂直が、神様を中心として一体的にぴったりとなっています。
人間の愛と神様の愛の合徳の基地はどこですか? 神様を愛するために人間を創造したのであれば、神様はなぜ愛のために人間を創造したのでしょうか。神様一人では孤独です。愛を中心として、千年、万年生きたくて、人間を創造したというのです。
「わらぶきの三間の家でも、両親父母を迎えておいて、千年、万年生きたい」。そういうでしょう? 理想的な神様も同じです。わらぶきの三間の家より、もっと小さい所に入っても、天下を抱いて息をして生きるのは、驚くべきことです。その家が小さい家ですか? 神様が入っていらっしゃるならば、天国の王宮であり、宇宙の王宮になり得るのです。