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第一章 「真の父母」とは : 第四節 真と真の愛 : |
皆さん! 「真」、「トゥルー」という言葉は何の言葉ですか? それは丸いものですか、角張ったものですか、平たいものですか? その定義とは何でしょうか? そして真に対する定義を下すのに、何を中心として下すのでしょうか? それが問題なのです。
皆さんが「真の人」と言うとき、その真の人とはどのような人ですか? 真の人も目が二つあって、鼻があって……。簡単なのです。目、鼻、口、体が、みなある人です。
では、真ということは、ある一定の場所の制限を受けることをいいますか、一定の場所を超越することをいいますか? (超越することをいいます)。それがどのように、何をもってですか?
どうしてその制限線を超えなければならないのでしょうか? それは何を意味するのでしょうか? 我々は、すべてを代表して測り得る内容をもたなければならないということが分かります。
皆さん! 数学なら公式をいい、物理なら公理をいい、それらの定義をいうとき、その定義とはどのようなものでしょうか? 公式というものは、小さなものですか? 公式の単位というものは、簡単なものですが、その公式的というものは、すべてのものを比較できる主体性をもつべきです。それでこそ公式や単位の基準が設定されます。これを知るべきなのです。それが違えば、膨大な宇宙にぴったり合わないのです。
メジャー(尺度)のようなものを見ても、十二進法とか十進法などがあります。それは小さいですが、形態はみんなぴったり合うのです。そうでなくては、これが回っていかないのです。全体が回っていかないのです。ある部分では合っても、全体が合わないようになるときには、これが成立しないのです。全体存在の成立が喪失されるということを知るべきです。
それは、人間世界も同様です。真なる人とは何でしょうか? 人間が生きていくにおいて、スケールとメジャーのようなものがあって、力を連結させて、世界に拡大していくのです。それが全部均衡に合うように拡大するということです。
人間の生涯、人間が生きていく道にも、そのような公式的な道がなければならないという言葉が出てくるようになるのです。
皆さん! 今人間世界には、五十億の人類が暮らしていますが、この地球村に暮らす人たちの先祖たちは、どれほど多く地上で生きては死んでいったでしょうか。それを考えてみましたか? 少なくとも現在暮らしている人々の何百倍、何千倍の人々が生きて死んだでしょう。では、その人たちの中で、人類が願う真なる人が何人いたでしょうか。真ということは、千年前も、今も、いつでも真です。
「純金」と言えば、二十四金でしょう? それは地形的な距離や、時空によっては変わりません。どんな立場に処しても、変わらないのです。それは、王の手に行っても、どんな不良の手に行っても、どんなに変化する環境に行っても、変わり得ないのです。そのようなときの黄金色を、「真なる色だ」と言うのです。分かりますか? (はい)。
黄金色が好きでしょう? 色というものは何に似ているでしょうか? 黄金色に似たのです。そうではないですか? 明るい色は、黄金色に近い色です。太陽の光も白い光ですが、黄金色が多いですか? 黄金色です。夕焼けは、もっとそうです。
それと同じく我々人間において、千年、万年変わり得ない色をもった、そのような真なる男がいるでしょうか? これが問題です。真なる女がいるでしょうか? どう思いますか?
宗教界では、人間は堕落したと見ています。もちろん、背景が異なる宗教もありますが、すべて救いを受けるために、価値のある新しい人間を探しています。その言葉は、どういう意味をもっているのでしょうか。真なる本然の人間、真なる本然の人間像に及ばなかったために、それをいつも追求するというのです。それは、千年前も、何億年前も、今日も同じです。今日以後にも人類が存続するどんな環境でも、どんな時代でも、それを追及するようになっています。それを知るべきです。
皆さんも、その真なる人を探しているのです。真なる男、真なる女を探しているのです。歴史時代に生命をもって生まれた男女たちは、自他を問わずそこに首をかけて考えるようになっています。それゆえ、どこで暮らすようになっても、その場所で一番進んだ真なる人になろうというのです。