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第六章 「真の父母」と我々 : 第六節 生命視すべきこと : 一 自己主張不可 |
皆さんが持ったものは、黄金の粒は黄金の粒ですが、砂の中に入っている黄金の粒、何かの鉱石や土の中に入っている黄金の粒なので、それらを全部溶鉱炉にほうり込んで、溶かしてしまわなければなりません。焼き出さなければなりません。それが行くべき路程です。オリジナル・コース(本来の路程)、ノーマル・コース(標準の路程)です。では、そのときに体が溶けて水になってなくなるのに「ああ、いい」と言いますか、「ああ、私は死ぬ、私は死ぬ」と言って一大事が起こりますか? それは、皆「死ぬ」と言っても、黄金の粒の死なないのです。
皆さんには純粋なものが多いですか、純粋でないものが多いですか。どちらが多いですか。では、どちらが主体ですか。純粋ですか、不純が主体ですか。皆さんがみな純粋なら、心配しなくてもいいです。
皆さんが、100パーセント純粋になるには、98パーセントまでは否定しなければいけないということを知るべきです。我々のものは2パーセントにしかならないのです。どちらを歓迎しますか。どちらを取るべきですか。これを取るべきですか、これを取るべきですか。(板書されたものを指されながら語られる)どれほど悲惨ですか。その言葉は何かというと、女性より男性の段階がもっと早いのですか。それがそのようになっているのです。
どれほど悲惨か考えてみなさい。ムーニーの生活は悲惨でしょうか、幸福でしょうか。では、ムーニーの中心であるレバレンド・ムーンは幸福なのですか、悲惨なのですか。初めは不幸でも、あとには幸福だという、そのような希望をもっているのです。
「迫害すれば溶鉱炉に入る。私がまだでき上がっていないからこうだ」、このように考えるのです。迫害が来るなら来いというのです。迫害できるならしろというのです。純金になるまで、溶鉱炉に入っていることを願うのです。それが、早く純金になる方法です。
アメリカでレバレンド・ムーンに反対するのに、世界の溶鉱炉にレバレンド・ムーンをほうり込みながら、どうですか? 100名をほうり込んだのに、100名が出てきたというときは「あっ!」と言って驚くでしょう。全アメリカが即座にこっぱみじんになるのです。全部こっぱみじんです。どうですか。アメリカ国民は、気分がどうですか。「ううっ」と言うでしょう。敗北するしかないのです。
ですが、レバレンド・ムーンはどうですか。レバレンド・ムーンは勝利するのです。レバレンド・ムーンは勝利して、アメリカは敗北するでしょう。そうなれば、アメリカはどれほど悲惨でしょうか。そしてレバレンド・ムーンは、どれほど素晴らしいでしょうか。そこには異議がないのです。そこには反対する人がいないのです。
何をもってそのようになったのでしょうか。「ああ、愛だったのだなあ!」と言うときは、「ああ、私が今までは奥部屋暮らし(注:本妻がめかけに実権を奪われること)だったけれど、これからは同参できる」と言うのです。どうですか。その概念はどうですか。
それゆえ98パーセントを捨て100パーセント純粋なゴールドになるための道を行く人は、我慢するのがどれほど大きくなければならないでしょうか。苦痛がどれほどひどいでしょうか。それでも行くべきだという信念をもたなければなりません。
世の中の人たちが、100パーセント純金だと鑑定したのに、神様がピンセットでつまんで鑑定するとき、100パーセントになるのかというのが問題です。それが心配です。神様が100パーセント純金だというのと、私が100パーセント純金だというのを比較するとき、私が100パーセントだと主張するのがもっと大きければいいのですが、どうですか。私は、私が主張するものがもっと大きくあってほしいと願います。そうするには、自分を主張する不純分子が一つでもあってはいけません。では、神様は自分を主張しないのかというのです。神様も自分を主張するのです。神様も自分を主張し得る素質があるのです。
自分がもっと純粋になるためには、自分を主張するものが一つでもあってはいけません。そうなれば、自分が100パーセント純金になり、神様が鑑定する純金以上の位置に行くのです。そのように考えられるのです。どうですか。自分を主張する心、自分が中心だと思う心が、永遠に何もないというときは、100パーセント以上純粋なものになることができます。
では、純金とは何でしょうか。不純な要素が一つも介入しない、ただそのままの姿をいうのです。ですから、完全に自分がない、100年、1000年愛に酔って暮らす人たちがいる国は、愛においてピュア・ゴールド(純金)の中の標準になることができます。その概念はどうですか。最も素晴らしいではないですか。そのような愛の所有者は、偉大な女王や王子と同じです。それはどうですか。私は、皆さんにそのような妻、そのような夫になりなさいというのです。そうなれば、皆さんはどれほど素晴らしいでしょうか。
そうして、純金になれば、神様が必要ですか。神様がその中に既にいるのです。必要とする必要がないのです。それゆえ、皆さんはそのような人にならなければなりません。
皆さんは本当の純金ですか、偽物ですか。偽物です。私は何ですか。皆さんが本当なら、私は何ですか。それで、皆さんが本当なら、私は偽物だということではないですか。そのときは、「我々は本物です!」と、そう言うのですよ。ただ「本当です」と言うようになれば、困るのです。
統一教会では、私が最高の位置にいるのではないですか。そうでしょう? 本当という言葉を付けるなら、私が先に付けるべきであって、皆さんから付けるべきかとというのです。言葉について言うならば、正しい言葉は「我々も本当です!」それはいいのです。ただ「本当だ」と言うと、それは失礼です。
私が皆さんを見るようになるとき、本当ではありません。皆さん、3,4、5人を合わせてぶん殴って、再びつくり出せば本当になるか、このように見るのです。私が売る本当の市場、本当の商店に皆さんをそのまま置いて、「本当だ」と言って売れないのです。売り出すことができないのです。分かりますか。そのように見るのです。ですから、鍛錬と試練、製錬の過程がまだたくさん残っていると見るのです。
「お前たちは純金か?」と言うとき、私は純金だと見ません。まだ錬磨を受けるべき宿題の過程が残っているから、嫌でも良くても、製錬所に全部つっ込まなければなりません。突っ込んで悪いものは焼いてしまい、純粋なもの、一つの結晶体として連合したもの、表も中も間違いなく一つに現れ得るその形態を備える前には、統一教会員だとは言えません。
我々には、自分を調整するための調整装置、調整する期間、調整する時間が必要なのです。標準の時計があるでしょう? 標準の時計のように合わせておかなければなりません。はかりも、標準のはかりがあります。それは世界に一つあるのです。メートルならメートルの原器というものは、二つでなく一つです。
では、本来は人間の調整の基準がありますか、ありませんか。では、人間のその絶対基準と、現在勝手になった自分の基準がゼロ点の調整で自然に合う自分ですか、無理にでも合わない自分ですか。無理に合わせても合わないのです。
このような自分が本来の原器、メートルならメートル原器のように、自分を認めてくれというのです。それでは、それを認めてくれる人が狂った者でしょう。そのような者は、殴って捕まえなければなりません。神様が、「おい、こいつ! お前は顔つきがそうなのに認められると思うのか? 否定して殴って捕まえなければならないのに、同情して協力しろだって?」と言うのです。
今日、祝福家庭という群れは、家庭ではないですか! 「家庭」と言いながら、家庭という名詞は尊重して、家庭の内容は無視する輩が多いのです。