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第六章 「真の父母」と我々 : 第四節 恩寵と自覚 : 七 責任をもつべき我々 |
霊界に行き、十二の真珠門を経ていくためには、どのようにすべきでしょうか? 地上でどれほど天の民をサタンから探して、回って入ってくるかということが問題です。
そうするためには、涙と血と汗を流さなければなりません。再創造の真の愛の心情を中心として、サタンの父母以上、サタンの夫、妻、息子、娘以上の心情を投入して、涙とともに、血と汗とともに交差するその過程を経ずしては、天国の自分の民を所有することはできません。この数の比例に従って、あの国の栄光の位置に、神様の前に近く行く、すべての条件の成立がより分けられるということを知るべきです。
文総裁は、一生を経て、国だけでなく世界を……。なぜでしょうか? 霊界に行っている人たちまでも、全部「真の父母」の恵沢を受けるべきです。ダンベリーの監獄に行き、2月1日、地獄と天の門を開く式をしました。それを開門するために、すべてのことを準備しなければいけません。ですから監獄にも行かなければならないのです。
このように、千辛万苦、恨の峠を越えに越えなければならず、大洋が広いといえばそれを泳いで渡っていくのと同様に、山が高いといえば、裸足でも白雪が積もっているヒマラヤ山頂を越えなければなりません。そのよううに、歴史の悲惨さ、それ自体を越え、すべての勝利の覇権的基盤を立てたという事実は驚くべきことです。悪魔自体がついて来ようとしても、ついて来れなくて、離れまいとしても、離れざるを得ない受難の道を経てきたということを知るべきです。
自分の家、自分の息子、娘が厳粛な場にいるのです。第二の神様です。おじいさん、おばあさんは、昔を代表した神様に代わり、お父さん、お母さんは、この時代を代表し、息子、娘は、未来を代表したのです。この三時代を過去、現在、未来の神様の顕現者として侍るすべを知るべきです。息子、娘をたずらかし、妻をたぶらかし、夫をたぶらかし、父母をたぶらかす人は、地獄に行くのです。「ため」の愛、生命までも投入して忘れることができる真の愛の核を中心として、家庭と国家と天地がつながるようになっているのであって、それ以外にはありません。
そのような核を通じた心情的内容をもって、天国の民をどれほど復帰するかという問題が、今日私の国の統一のための解決の秘訣です。他の所へ行って、今日の私の国の統一と同様に、同じ立場に立ってその国を、あらゆる精誠を尽くし、どの国にも負けないよう、まず天の前に奉献しなければなりません。
旧約時代は万物、新約時代は息子、娘、成約時代は夫婦、その次には神様です。堕落で神様を地上に迎えることができず、サタンを迎えて神様と離別したので、今は神様を迎えて、全部つなげなければなりません。
それゆえ、皆さんの物は、皆さんの物ではありません。万物は旧約時代に該当するのであり、息子、娘は新約時代に該当するのです。旧約時代に万物を犠牲にしたのは、息子、娘の行くべき道を築くためです。そして、来られる再臨主、「真の父母」がこの地に来て苦労することは、神様をこの地に迎えるためなのです。しかし、サタンを地に迎えたので、これは地獄です。神様を迎えなければなりません。これは「真の愛」でしなければなりません。
再創造は、投入して投入して忘れた、真の愛の起源を通じて、神様を迎えることができる物質と子女と自分の実体全部を結合させて、このすべてが真の愛とつながった神様のものである、という言葉が設定されたのちに、再び分配されて、子女の所有時代につながるのです。父母の所有、子女の所有時代に分配されるのです。