第六章 「真の父母」と我々 : 第四節 恩寵と自覚 : 一 「真の父母」という言葉は初めて現れた言葉

 皆さんは、復帰摂理を習って、神様のみ旨が成されるためには、父母がいなければならないということ、堕落した父母ではなく、「真の父母」が来なければならないということを知っているでしょう。
 この「真の父母」という言葉は、皆さんが考えもしなかった立場で見いだされ、会うことのできる、そのような言葉、そのような内容ではないことを、皆さんは知るべきです。これは、歴史上に初めて現れた言葉であり、初めてそのようだということを我々が感じているこの事実は、革命が問題ではないのです。これは、歴史にない奇跡的な大事件であることを、皆さんは知らなければなりません。
 皆さんが、「真の父母」というこの言葉を習い、「真」という言葉を言うようになったのは、今まで生まれては死んだ数多くの父母たちの愛を凌駕し得る、たった一度しか存在できない愛をもって現れたために、可能なのです。そのような基準をもったために、「真の父母」という言葉をいうことができるのです。このときの愛の関係は、神様の愛があるなら、その神様の愛を人間が初めて受ける最高の基準であり、イエス様がこの地に生まれて亡くなりましたが、そのイエス様も想像できない、そのような最高に理想的な立場ではないでしょうか。
 このような立場まで来るときは、歴史過程でその代価を払ってきたのです。「真の父母」の基準が出てくれば、自分が根本的に敗北することが分かるサタンは、これを成せないようにし、この時が来ないようにするために、偽りの父母の立場で、手段を選ばず、数多くの人を犠牲にし、数多くの血の代価を払うようにしたのです。この日が来るまで、むごたらしい犠牲が払われたということを、我々は考えなければなりません。
 そのような思想をもって、そのような道を行こうとするすべての信仰者たちに対して、個人的に犠牲にさせ、家庭的に犠牲にさせ、あるいは民族的に、国家的に、世界的に犠牲にさせてきたサタンの歴史がありました。そこに犠牲になった我々の先祖たち、善を追求して真の道、父母の道を探してきた善なる我々の兄弟たちが、どれほどむごたらしい血の代価を払ったかということを、我々は知るべきなのです。