第一章 「真の父母」とは : 第三節 真の原器 :

 真なる心は、変わりません。それがなくては、皆さんは基準を立てることができません。「こうだ、ああだ」と評価できないのです。絶対的な基準から公証され得る内容の根をもてないのです。もてないと、その及び得ない基準から評価される存在は、流れていってしまうのです。
 メーターのようなものも、その原器があります。それを中心として「違っているのではないか」ということを判定することができるのです。いかなる問題が起きても、ここに合わせてみて、ぴったり合えば、不平を言っていた人たちも一時に、みな離れていくのです。

 愛には革命もなく、変化もないのです。変わるものに、貴いものはありません。ダイヤモンドは、堅さにおいて変わらないために宝物としての扱いを受け、金は黄金色が変わらない特異な権威をもち、その色がかわらないところにおいて貴いのです。真珠は、調和した色、優雅な色をもっていますが、それが変わらないために貴いのです。貴いという宝物を、なぜ変わらない特性を中心として策定したのでしょうか? それが、宇宙の万物の存在価値を比較できる基準だからです。
 では、この宇宙のすべての測定で、全体を測定し得る価値基準において、一番最初の基準となるのは何でしょうか? それが問題です。金でしょうか、ダイヤモンドでしょうか? それは変わらない愛、壊れない愛です。壊れるようですが、壊れません。勝手にできるようですが、勝手にできないのです。そこに自分が含まれるのです。そこに策定されるのであって、自分では策定できないのです。
 この宇宙において、そのような原因中の原因になり得る度量衡や原器とは何かと考えるとき、どうでしょうか? それはある測定器の原器ではなく、変わらないあるものでなければなりません。

 神様もその標準を変更させることができず、人間も変更させることができないもの。永遠不変でありながら、宝の価値をもち、地の果てや、地獄や、天上世界や、どこでも昼夜を克服し、地域を克服し、距離を克服し、時空を克服して、絶対的な測定の基準、比較の基準になり得るものとは何でしょうか?
 地球にも緯度、経度においてゼロ点基準があります。それは英国のグリニッジ天文台を中心として、ゼロ点になっています。どんなに変わらせようとしても、変わらないのです。そのような基準があるべきではありませんか? それがなければ、秩序の世界が形成されないのです。
 この宇宙で測定し得るすべての存在が、その等差と位置を決定したいその本来の基準、神様もそこに従うことができ、全体がそこに従わざるを得ない一つの基準とは何でしょうか? 黄金の固まり、ダイヤモンド……。それらはすべて、神様のつくり得るものです。神様が一人で、勝手にできるものです。
 愛ももちろん神様がつくることができると見ますが、その愛を所有するということは、一人では不可能です。二人で所有すべきです。愛は、神様も一人では見いだせないのです。
 それゆえ、その基準、測定原器とは何でしょうか? 宇宙万象の存在世界だけではなく、永遠の世界ですべてのことを測定し得る基準、絶対的に一つしかないその原器とは何でしょうか? 根本問題です。それが、愛というものです。それで、愛は春夏秋冬、季節の変化に影響を受けないのです。

 皆さんは、距離を測る尺度があるのを知っているでしょう。もし、一センチメートル単位なら、そのモデルというものは絶対的です。それは一つしかありません。そこに比較して、同じなら、それはみな正しいというのです。しかし、いくら「自分が一番だ」と言っても、そのオリジナル・フォーム(原器」ときっちり比較してみるとき、合わなければ不合格者なのです。
 また、一センチメートルは十ミリメートルです。ですから一ミリメートルというものも絶対的です。それが十であれば一センチメートルになり、百であれば十センチメートルになります。このように上がっていくのです。それでこそ、それが連結して、どこへでもそれは共通的であり、統一的な内容をもつようになるのです。
 では、人々の世界には、そのようなものがないでしょうか? 人々の世界が統一されるには、原則的な基準から体と心が闘わず、一つになった形、「こうであるべき」というフォームがあるでしょう。

 皆さん、メートルがあれば、そのメートルが一メートル、百メートル……。いくら大きくても、それが問題ではありません。そのメートルの基本単位は何でしょうか? 一ミリメートルです。一ミリメートルはあまりにも小さいから、大概一センチメートルで言います。
 いくら億万でも、その単位の一ミリメートルに全部合わなければなりません。これが、全部きっちりと合って、すべてが一ミリメートルだと言うようになるとき、それを我々は、世界のものとして使用するのです。それは、アメリカの一ミリメートル、韓国の一ミリメートル、あるいは英国の一ミリメートルも、すべてが同様です。変わりがありません。それが真理です。
 皆さん、真理とは何ですか? 真です。真とは何でしょうか? それ以上の基準として数えられないという位置に立ったものを、真理と言います。ここに、物理学博士も来ていますが、物理学を勉強するには、自然界のすべての動きを知らなければなりません。その動くものは、漠然とは動きません。
 皆さん、考えてみてください。この地球が、どんなに大きいでしょうか。この膨大な地球が、一年に一回ずつ太陽系の周囲を巡回するのに、それが一分でも差異がありません。一秒も差異がないのです。ぴったり合うのです。差異があれば、大変なことになります。差異があれば、どんどん小さくなるか、どんどん大きくなるという問題が起こるのです。そうなれば、陸地と海が全部分かれるのです。

 地球の年齢を四十五億年として決めているでしょう? 四十五億年動くのに、異常なく、公式的な基準、単位を中心とした、公式基準上に連結された運動をしてきたのです。そこには原理というもの、公式というもの、公理というものを中心として、測定する単位を必要とするのです。同様に、真とは何でしょうか? 真とは、一つにも合いますが、千万を合わせても、きっちりと合うのです。
 金の中で純金を言うときは、二十四金です。二十四金は、真の金です。そうでしょう? 二十五金はありませんか? 二十六金はありませんか? それも問題です。このように見るとき、中央に立てて、均衡になり得るそのような位置に、我々が視覚的に最小単位において帰るとき、それに垂直的な平行線上に合い得る……。これが垂直なら、これが平行になるのに、このようになってはいけません。このようなものは、真ではありません。
 それでも、二十四金までは、これが垂直になるのです。そのような基準圏内に立っているために、二十四金が真だというのです。そこは垂直をもって合わせても、縦的基準をもって合わせても全部合うのです。宇宙的な縦の前に平行線として立ち、宇宙的な横の前にも平行線を成すのです。

 宇宙の大運動、大運勢……。それが漠然と動くのはありません。みな法度を中心として動きます。主体と対象関係の運動をするところは、必ず垂直です。
 その垂直が、変更されるものは、飛んでいってしまいます。流れていってしまうのです。壊れてしまうのです。垂直がピッタリと位置をつかんでこそ、空間世界に自分の位置をつかんで存続の基盤をもつのが常なのです。このような言葉は、少し難しいでしょう。
 同様に、我々人間のはかりとは何でしょうか? 人間にもはかりがなければならないでしょう。そうではないですか? 数学を解くには、世界的に共通の数理的基準を設定しておいたその基盤で、「一つ」と言えば世界も「一つ」と言い、「二つ」と言うとき「二つ」、「三つ」と言うとき「三つ」と言いながら、正しいと言うでしょう。ある基準に合格した共通的な基盤が世界的な舞台に立つようになるとき、そのようなものを「真理」と言うのです。
 真理の中には、何があるのでしょうか? 真理の中には、必ず東西南北の四方があるのです。真理があるときは、必ず環境があるのです。では、環境が先ですか、真理が先ですか? これが問題となるのです。環境が先なのです。

 我々人間を見るとき、どうですか? そのような人間を中心として見るとき、真なる人間とは、どのような人間かというのです。縦横の標準にならなければなりません。「縦に見ても合う。ペチャンコにならなかった。横に見ても合う」と言える基準にならなければならないのです。
 縦横が一致してこそ、公式的法度上において、前後、左右、上下の差異がありません。同じです。これを、どこにもっていって合わせても、きっちりと合うのです。東にも合い、西にも合い、北にも合い、南にも合い、地上世界にも合い、霊界にも合うとき、「真である!」と言うのです。
 ところで、いくら大きいものでも、ミリメートルで測定してみると、残ったものがあるとします。その残ったものが半ミリメートルにもならなかったとしても、それはすべて否定されるようになります。不完全なのです。それはごみ箱に入るべきです。そのような何かがなければならないのではないですか。測定する基準がなければならないのです。