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第一章 真の愛というものは : 三 愛が介在する時、調和が成される : |
愛は、考えでも良く、形でも良く、味でもいいのです。これが愛です。
愛とは、東西が合わさるものであり、南北が合わさるものです。その次は天地が合わさるものです。ですから愛は球形を成すようになります。
口が真の愛に酔っているならば、ほほえむその唇がどれほど恍惚だろうかと考えてみてください。人間の五感が真の愛によって動く姿、神様に向かって動く五感の調和がどれほど美しいかを想像してみてください。美しさを通じた喜びは、神様一人では体験できないものです。美しさは、相対がいてこそ体験できるもので、それが神様が人間を創造された目的です。神様は天地を創造された以上に、美しい内容を所有した人間の心情世界を旅行したいのです。
神様も息をします。真の愛の呼吸をされるのです。神様も宇宙の拍子に合わせるので、真の愛を中心に宇宙が永遠に続くのです。ですから皆さんがここまで行ってこそ、神様の呼吸圏内に入って永生するのです。
宇宙は丸い形をしています。太陽も丸い形です。すべての丸いものは何を中心とするのでしょうか。自分一人では丸くなることができません。誰かを中心として関係を結んでこそ丸くなることができます。このような関係圏を集約させる一つの物体、一つの存在物と登場する世界は、円形圏を基盤とするようになっています。ここでこの円形をつくることのできる物体とは何でしょうか。調和の母体は、愛の作用だというのです。
愛は神経のようなものです。私たちが髪の毛一本を引っ張れば、体全体が引っ張られるのと同じように、愛さえ引っ張れば宇宙が引かれてくるし、愛さえ動かせば宇宙がみな和して、回るようになります。
人は酔って生きなければなりません。酔って生きる人が幸福な人です。文学をする人たちは、自分が構想する本を書くとか、ある名作に酔って生きます。そのような人が、幸福な人です。ですから、人間の四肢五体は、立体的な神様の理想的な愛に酔って生きなければならないし、その方だけについて回らなければなりません。
男性が求め、女性が求めているもっとも貴いものとは何でしょうか。愛です。愛は人も永遠に好み、神様も永遠に好まれます。愛とは、全宇宙が永遠に一番好むものです。
愛は見えませんが、最も貴い贈り物です。それは不変性をもっているからです。黄金は不変の色、ダイヤモンドは不変の硬さ、真珠は不変の調和の色があるので貴いのです。しかし宝物には生命がありません。真の愛は、生命がある宝物なので、もっと貴いのです。
愛とは、みな好きになることです。愛とは結局、好きになることです。
平等という言葉は、愛を抜けば何でもありません。愛を中心として「ため」に尽くす時、真の平等が成されるのです。愛をもてば、男性と女性が対等になることができるし、愛をもてば、息子が大統領だとしても、その息子と母親は対等になれるというのです。愛をもったすべてのものは、平等になれる内容があります。私たちはこれを知らなければなりません。
万物の中心は人間です。人間の中心は何でしょうか。真の愛です。神様の愛は垂直線一本です。天地の中心を立てるためのものが男性の愛の線であり、女性の愛の線ですが、女性は男性のところに行き、男性は女性のところに行って、その線が回るようになるのです。男性と女性が真の愛をもって現れる時に、神様の前に完全なマイナスの愛が生まれるのです。完全な真のマイナスの愛が生まれる時には、縦的な神様のプラスの愛が自動的に臨みます。宇宙のすべての原則がそうなっています。
私が宇宙と授け受ける関係に置かれるには、愛をもってこそ可能です。愛でなくては永遠に与えることができません。愛が温柔で謙遜なものだと言ったのも、抵抗なくそれをもっと多く、完全に運動させるためです。温柔で謙遜に犠牲になれば、いつでも通じるようになっています。どこでも抵抗なく行くようになります。これは犠牲ではありません。抵抗なく作用するための一つの方法が「ため」に生き、犠牲、奉仕することです。それではなぜ奉仕しなければならないのかといえば、第二の生の呼吸器官を完成させるためです。
繁殖するすべての存在は、必ず対が連合して繁殖しますが、繁殖の調和を起こすその内容が愛です。自然界のすべての存在物の繁殖は、みなそうです。水も陰性の水があり陽性の水がありますが、陰性の水と陽性の水が混ざったところには魚がよく棲みます。寒水と温水が和合するところには魚がたくさん棲むようになっています。それが理想的です。和合しなければならないのです。
北に棲む鳥が南に行って雛を産み、南に棲んでいた鳥が北に行って雛を産みながら交流するのも、みなリズムによってそうするのです。そこで生まれたので、そこに行って雛を産むのです。冷たい水にいる魚は暖かい水の所に行って産卵し、暖かい水にいる魚は冷たい水に接してこそ産卵するようになっています。陰陽の一致の和合が成されなければなりません。それで移動するのです。
愛は、相対関係がなければ成立しません。絶対的な神様だといっても、一人では愛に出会う道がありません。相対者を立てずして出会うことができないので、絶対的創造主の前に絶対的相対の資格を備えておくためのものが創造であり、創造の傑作品が正に私たち人間です。神様も愛を探すために相対が必要だからです。
神様の愛に酔えば、砂の一粒を千年見つめても嫌になりません。私たち自身が愛の宇宙の中で生まれたと思えば、無限に幸福になるのです。
真の愛は、無理になされるのではなく、自動的に喜びの中でなされるのです。愛する時も、もらおうとだけしないで、互いに授け受ける作用になってこそ理想的な愛が成立するのです。
もし愛が誰でも描くことができ、触ることができ、形態がどうだと分かるようになっているならば、そのような愛は一日もたたないうちに嫌になるでしょう。しかし愛はあるようでつかめず、ないようであるのです。悪いと思えば良く、良いと思えば悪い、千態万象の奇怪な蜃気楼のような内容を作動させるのが愛です。
宇宙統一理想を完成させる内容とは、真の愛です。いくら名作だといっても、その中に真の愛の味がなければ吐き出してしまいます。夫婦間の真の愛においても同じです。
人間が愛を一番好むのも、愛が全体を統一させ私のものにすることのできる主体だからです。人々には、愛がどれほどいいものかを知るすべがありません。
愛は、父母が子供を愛するように、すればするほど喜びが膨れ上がるのです。愛は一つになることです。もし神様の愛と一つになった人がいるとすれば、その人はどこの誰も切り離すことができません。ですから、どれほど素晴らしい愛でしょうか。
花の中に入っている蜂たちは、蜜を吸おうとお尻をもち上げ、頭を埋めています。それをピンセットで引っ張っても離れません。強く吸ってお尻が外れても離れません。その蜜の味がどんなに良くてそうするのでしょうか。蜜の味がそうならば、愛の味はどうでしょうか。愛の味と蜜の味では、どちらがもっといいですか。
愛でなくては一つにすることができません。二つを一つにするには言葉をもってはできません。二人が一つになるためには、何がなければならないのでしょうか。物質をもって一つになったならば、物質がなくなれば逃げていくのです。第三者の紹介によって何らかの事情を通じて一つになったなら、その人がいなくなれば去ってしまうのです。二人が一つになるためには、そして永遠に一つになるためには、何がなければならないのでしょうか。愛がなければなりません。
愛のみに、あらゆる色の刺激を統一することのできる力があります。その愛が何かは分かりませんが、世間の人が「嫌だ」というおじいさんの臭いが、おばあさんの鼻には心地良いというものです。おじいさんの顔と手に皮しかなくても、おばあさんはその顔と手がいいというのです。まさしく愛がそのようにします。愛の風の吹いた時は、天下がすべて美しく見えます。愛のふろしきを取り込めば、詩人でない人がなく、風流でない人がいないというのです。
私たちは一つの草を見つめても神様の立場で見つめなければならず、花を見つめても神様の心情の代身としての立場、神様の心情と通じることのできる立場で見つめなければなりません。昆虫や鳥、あるいはある動物を見る時も、神様の心情と因縁が結ばれるような内的な感情を体得できなければなりません。神様の愛のように生きる人が神様の息子であり、娘です。天を主管することができ、地を主管できる全天宙の主人公です。人間が子供の立場に置かれ得る本質的な内容は、愛です。
心情で私たちの心は無限に大きくなることができますが、知識で無限に大きくなることはできません。愛の心情は宇宙を含んでも余りあるので、このような偉大な本然の地を開発すれば、神様もその中に来て昼寝をしたがります。知識によって神様を包括することができないので、そこにおいて愛の心情が偉大だということを知らなければなりません。
愛は国境を超越します。神様の愛には国境がありません。五色人種を超越するのです。黒人、白人、黄色人種と言って差別しません。それで神様の愛は偉大なのです。愛の流れにおいて環境を介さず、流れていけば環境が同化され、発展するのです。そうすることのできる思想的な内容を備えてこそ、神様が好まれるのです。そのため愛の道を行かなければなりません。