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第五章 愛と霊界 : 二 愛の人格体は地上生活で具備しなければならない : |
地上にいる時の生活がどんなに重要でしょうか。地上生活は一度しかありません。瞬間ですが一度しかありません。地上生活を永生に比喩すると、これは一点にすぎません。あまりにも短い瞬間です。この期間に肉身生活を越えて霊界のために準備しなければならないのです。常にそのような思想をもって、中心に立って一体をコントロールして征服できなければなりません。そうでなければ完成を成すことができません。それを知らなければなりません。
もし生涯の中で三分のニ以上が罪の生活をしたならば、その三分のニの生活をすべて切り捨てることができるでしょうか。できません。切り捨てることができないのです。これは必ずついて回るのです。
皆さんの心をフィルムに撮って、その写真を自分が見ると思ってください。
完成は地上でするのであって、霊界でするのではありません。地上でこそ真の愛を中心として可能なのです。霊界ではありません。
今日、信仰生活をしている人は蕩減法を知りません。無責任な立場で天国に行くと思っている人は多いけれど、責任をもって蕩減し歴史的な罪を清算してから天国に行こうとする人はいないというのです。ですから私たちは肉身をもっている地上生活で責任を果たし、歴史的なすべてのことを清算した条件を立ててから行かなければなりません。霊界に行った人は蕩減できないので、もう一度来て蕩減しなければなりません。今まで来て去っていった歴史時代のすべての霊人たちは蕩減復帰をすることができなかったので、全部この法に引っ掛かって、霊界に行ってからもう一度来て蕩減条件を立てなければならない運命にあります。地上に住んでいる人が霊界の人より一つ有利なことは何でしょうか。直接蕩減条件を立てることができる肉身をもっているということです。
皆さんが天国に行く人か、地獄に行く人か、確実に知らなければなりません。レバレンド・ムーンは霊界をよく知っている人です。いろいろな人が生きては去っていきます。死を避けることのできる人は一人もいません。死は避けることができないというのです。ここで生きて去っていくのですが、自分のために生きた人は、この世界に行ってぐるぐると回って地獄に行くのであり、他のために生きた人はぐるっと回って天国に行くのです。
なぜ結婚しなければならないのでしょうか。父母の愛、夫婦の愛、子女の愛を体験するために結婚するのです。それでは、それがなぜ必要でしょうか。愛の空気が充満するところが霊界です。霊界の拍子に合わせる訓練をするためには、家庭をもたなければならないことを知らなければなりません。これを感じられずに行く人は、あの世に行って拍子を合わせることができません。このような人は愛の空気をかぐことのできる鼻のない人と同じなのです。
父子間の愛は縦的な関係であり、夫婦間の愛は横的な関係であり、兄弟姉妹間の愛は旋回して取り囲む関係です。この三つの関係はすべて違います。それで地上でこの三つの違った方法によって深い愛の経験をもってこそ、霊界に行って制限なく縦的、横的、円として旋回できるのです。例を挙げると、父母が早く亡くなったことによって父母の愛を味わうことができなかった人は、とても重要な愛の経験ができなかったので多少悲劇的な人であり、夫婦関係を経験できなかった人は、人生の重要な部分が不足しているので霊界ではとてもみすぼらしい人です。また兄弟姉妹がいない人はすべての分野が欠けているので、完全な人生を生きることができずに霊界で寂しい立場に立つのです。
地上で子女を立派に育てて残していかなければなりません。将来その子女すべてが霊界に行きます。霊界に行って天国の国民になるのです。自分が天国の国民として何人捧げたかという時、地上ではつらいことだったけれども、永遠の世界ではそれが高貴な光栄の道になるのです。
あの世に行くと、霊界に行ったすべての次元の高い人たちのことが、地上のことと同じなのです。地上とはどのようなところでしょうか。天国の国民を生産する生産工場です。分かりますか。広大無変の天国です。無限大です。あまりにも広いのです。人は数億年の間来ては去っていきましたが、どこにいるのか分かりません。そのように広いのです。一人が百人ずつ子供を生んでも天国は広いので、過人生産ということがありません。あの世は、いくらでも収容できる世界です。産児制限しなければならないでしょうか。してはいけないでしょうか。あの世に行く時、天国の民をどのくらい引き連れていくかということが問題になります。真の天国の息子、娘をたくさん引き連れてくる時、それが自分の権域になり、天上世界で表彰を受けることのできる等級の等差を設定できる資料になるということを知らなければなりません。
これから霊界に行って自分の所有権が何かというと、天国の民をどれくらい連れて入っていくかということです。それは自分の財産です。永遠の財産なのです。
道端の乞食や体の不自由な人を悪く言ってはいけません。皆さんの霊人体がその姿ではないかと思いなさい。
霊界には繁殖がありません。神様は縦的な父母の立場におられ、軸は一つなので一点しかないのです。
皆さんは霊界に行って保護官生活をしなければなりません。何千年も待たなければなりません。祝福を受けた人たちもこれから息子、娘がみな「お母さん、私をどうしてこんなふうに産んだの。どうしてここに引っ張ってきたの」と言わないと思いますか。皆さんの息子、娘がじっとしていると思いますか。皆さんの家庭によってレベルがみな違います。それで行くのも、自分の級に合うところに行って長い間とどまるのです。そうすると皆さんの先祖たちが、息子、娘が「なぜこうですか。なぜできなかったのですか、いったい何ですか」と言いながら讒訴します。皆さんはそれに該当するほどの長い時間そこにとどまらなければなりません。そのように簡単なことではありません。それで地上でしっかりしなければならないのです。
皆さんは父母として生まれました。その次にもっと根本的なことは、母親のおなかを借りて神様によって生まれたという事実です。皆さんは宇宙の父母を通して、肉身の父母を通して、真の父母を探していくようになるのです。肉身の父母は通過の父母です。それで死の瞬間は真の父母に会いに行く歓喜の時間です。そこを天上天国と言います。そこの構成要素は愛であり、父母の愛によって充満しています。その愛は私のためのものではなく、奉仕と犠牲の原則の元の法度を通すことのできる愛です。そこに合格するためには宇宙を愛し、人類を愛さなければなりません。地上生活はそのような愛のための訓練所です。皆さんはこのような内容が宇宙の根本だということを知って、生きている時にこのような観をもって愛を実践し、合格したのちにそこに行けば間違いなく神様に会えるという結論になるのです。
霊界に行くと、必ず行ったとおりに返さなければなりません。祝福を受けた家庭は先生が祝福を授けたので天国に行く門は開きますが、前進するにおいては心情の軌道に乗ってあちらから引っ張ってくれなければなりません。それで、これからそのような世界があらわになる時になると、皆さんはたくさんの審判を経て、初めて運命ではないかと思うようになるのです。
人が生まれたのは愛の実を地上に結ぶためです。地上で神様が望んだ愛の実を結実するのが地上に来た目的です。ですから短いのです。一つの季節にしかなりません。短いというのです。分かりましたか。
魚は水の世界を離れては生きていけません。水が絶対的な生命です。川の水に棲む魚が川の水だけにいてはいけません。海の水にも行ったり来たりして生きなければなりません。なぜそうしなければならないのでしょうか。淡水の魚は海水と接するその水を味わなければ子供をはらめないのです。それを知らなければなりません。それを知っていますか。また、海に住んでいる魚は淡水に来て味わって子供を産むようになっています。二つの世界に通じなければなりません。地上と霊界も二つの世界ではありません。ですから二つの世界で生活できる、ある内容をもたなければならないということを知らなければなりません。