第二章 愛の実際 : 九 自然愛 : 2.自然は愛の理想を教えてくれる教材

 人間は大きくなっていきながら、自然を見て習得します。「昆虫の世界はこうなっているのか!」と学ぶのです。月が照り星が光る秋の夜、耳を澄ませてみると、虫たちの鳴き声が一つのオーケストラの演奏に聞こえます。何のために虫たちがそのように鳴くのでしょうか。それは相対を探し求め、理想を歌っているのです。愛をささやいているのです。鳥や、他のすべての動物たちも、悲しい声、うれしい声を何で表示するかといえば、愛という共通分母に従って鳴き声を出すのです。軸から遠い距離にありますが、その軸を中心として平衡を取りながら回っています。すべての存在がそのようになっています。

 鳥たちの歌には三つの種類があります。まず第一におなかがすくときに合図する歌であり、次は、互いに愛する相対のために歌う歌であり、その次は、危険なときに鳴く歌です。それはすべて異なっているのです。私たちは、なに、普通の人たちには分かりませんが、自分たちの世界ではすべて分かっているのです。おなかがすいて鳴けば、すぐに分かるのです。毎日の生活が何を中心として成っているのでしょうか。おなかがすくことなどは、一度食べれば終わるものなのです。そうかといって、毎日のように、何か危険な立場にあるのでもありません。大部分の歌は、何を中心として歌うのかといえば、相対と授け受けする関係で、歌が行ったり来たりするというのです。

 人間は主体と対象、すなわち相対的なペアに造られていて、また人間のために存在するすべての万物世界も、愛の原理のもとに調和をなし、また人間の愛により生命と理想を実現するようになっています。万物世界は人間にとって、特に成長するアダムとエバにとっては、愛の教科書であり、愛の神髄が無尽蔵に陳列された博物館なのです。

 すべての鳥や動物は対になっています。お互いが愛を中心として和動します。花と蝶は極と極ですが、互いに和合します。これは天地の調和です。宇宙の極と極が、愛を中心として和動を繰り広げます。渡り鳥も同じです。南方にいた鳥が北方に飛んでいき、北方にいた鳥が南方に飛んでいき、地域を行き来しながら愛を成します。愛を中心として永遠に回ります。人間はこのような愛を、神様が造られた博物館の教材を通して学びます。

 人間と神様が喜び、愛せば、天下のすべての万物たちはそこに拍子を合わせて和動します。神様が愛し、喜べば、天使世界も喜び、このすべての被造世界が喜び、拍手を送り、称賛を送ります。歌える鳥は歌を歌って褒めたたえ、美しい花は香りを放って褒めたたえます。最高の愛の主人公たちが楽しむことができる香りの雰囲気を拡張させるためのものが、この被造世界です。見かけがぞっとするようなヒキガエルも愛を交わすときには「うっうっうっ」とします。どんなに素晴らしいことでしょうか。足をたたいて、後ろ足を上げたり下げたりしながら愛し合っているその姿がどんなにすてきですか。それは最高の芸術です。

 春になって鳥が歌を歌えば、その鳥の歌を聞くや否や、自分の妻を思い、自分の子供を思い、自分の国を思い、世界を思い、神様まで思わなければなりません。そうすれば、すべて完了です。鳥は鳥同士でのみ考えますが、人間は関係性をもっています。動物世界、植物世界、天上世界の中間媒介体としての関係性をもったのは人間だけの特権です。すべてを連結させることができます。これは人間だけの特権です。

 アダムとエバは成熟していくに従って、「ああ、あんなふうに愛するのだなあ!」と知るようになります。神様は万物世界を、人間の愛の理想を成熟させることができる教材として広げておきました。それを学んでいくのです。だんだん大きくなるに従って、「あは、昔は妹のように、お兄さんのように一緒に過ごしていたのに、よくよく見れば……」このように感情が変化します。「あ、こうなんだ!」と学んでいきます。それで「お前と私は死んでも会わなければならない。他の所には行けない」といって、平衡線を直行しながら出くわすようになります。

 愛は神経と同じです。私たちが髪の毛一本を引っ張れば、体全体が引き上げられるのと同じように、愛のみ引っ張れば、宇宙が引き上げられ、愛のみ動けば、宇宙がすべて和するようになります。そのため、愛があれば踊りも踊るようになります。踊りはなぜ生まれましたか。愛のために生まれました。また、歌も愛のために生まれ、笑いも愛のために生まれました。愛を取り除いてしまえば、すべてが固まってしまいます。

 人は蜂より蝶を好みます。蝶は踊りを踊りながら飛ぶのです。すべて飛ぶものは、拍子に、調子に合わせて飛びます。早く飛ぶものも拍子に合わせて飛び、ゆっくり飛ぶものも拍子に合わせて飛びます。飛び方は様々ですが、いずれにしても全部拍子に合わせて飛びます。また、山で鹿が跳び回ったり、うさぎが遊ぶのも音楽的です。それはすべて音楽の象徴です。このように考えるとき、そのようなこの宇宙を永遠に私のために造り、私のために取り付けたとすれば、その方に対して私たちは有り難く思わなければなりません。見物人のように、隣村のことのように考えてはいけません。

 山にも高い山があれば低い山もあります。それでは、私たちは山が高くもあり低くもあるのが好きですか、のっぺりしていて平坦なのが好きですか。高くもあり低くもあるのが好きです。それはなぜでしょうか。その形が踊りを踊ろうとするある型を具備しているからです。あらゆる形の曲線を描きながら、上がっていったり、下がっていったりしながら、様々な形態を表現しながら形づくられているからこそ良いのです。そうなれば、それが正に踊りです。自然の中には素晴らしい踊りがあり、素晴らしい音楽があります。素晴らしい芸術があります。それらのものが自然の中には実にたくさんあります。

 一番最初に神様の子女として生まれたアダムとエバも、神様の保護圏内で幼かったところから成長していくに従って、だんだん大きくなっていくのです。そうして、知能も発達していくので、神様がなぜ被造世界を造られたのかを知るようになり、その被造世界を通して教育を受けてくるのです。被造世界で動くすべてのことは、私たちの人間始祖、本来の先祖になるべきアダムとエバが生活できるように、すべてのことを教えてくれる教材でした。完成されたアダム・エバではないので、理想生活をしていく際の標本であり、一つの博物館であったという事実を知らなければなりません。

 朝、目を覚まして自然を眺めれば、その自然がおぼろげに私の本性と因縁を結び、新たな理想の感情を芽生えさせます。しかし、人間社会は眺めれば眺めるほど、絶望と悲しみの感情を高めてくれるという事実をよく知っているでしょう。本来、堕落しない本然の人間たちが住む世の中といえば、人間の価値は、そのように眺める者をして、悲しみを感じさせる程度のものではないのです。草一株や、花一輪、一本の木と同じ程度の価値で造られた人間ではないのです。被造物のその何ものを与えても替えられない高貴な人間であり、その何ものにも比べられない価値の姿で、天上に代わって現れるべき人間でした。

 神様の愛が宿っている自然を眺めて、「世の中の王様、あるいは有名な人がもっている見事だという品物に比べられるだろうか。骨董品と比べられるだろうか。ある有名な婦人が着ている豪華な服と比べられるだろうか」という心をもたなければなりません。そのようにできなければ、私たちは、自然世界の前に、自分でも知らずに罪を犯しているのです。一つの生命体を見るとき、「人間が造ったある物に比べられるだろうか。どんなに素晴らしい人であっても神様より素晴らしいだろうか」といって、神様が心情を傾けて造られた万物をつかんで、何よりも貴く感じる者がいるとすれば、この人は間違いなく天の息子、娘であるはずです。このような人は祈祷が必要ありません。神様と共に暮らす人です。天は人間をそのような位置まで駆り立てるのです。

 自然はどんなにつまらないものでも、そのどんなものとも比べられません。道端に価値なく立っている一本の木も、有名な画家が描いたどんな絵画とも比較ができません。どんなに名のある画家が最高の傑作品として花を描いたとしても、描かれたその絵画からはいくら凝視しても花は咲きません。香りもしません。また、種も結べません。しかし、価値なく道端に立っている木からは花が咲き、実を結び、種を残します。そして、その種を植えれば、その木よりももっと良い木がいくらでも出てくるのです。ゆえに、その有名な画家が描いた絵画とも比較できません。

 人間は自分が愛する人のものは何でも好み、慈しみます。そうするくせに、一番愛さなければならない神様が造られた万物を慈しむことを知りません。このような人たちが神様の息子、娘になれますか。嘆息している万物の恨を解怨してあげるべき責任を負った皆さんは、一本の木、一株の草にも六千年前、それらを造られた時の神様の心情と、創造に差し伸べられた手を体恤しなければなりません。そのような心をもたなければなりません。そのため、道を歩いていて、一株の草を見ても涙を流すことができなければなりません。一本の木をつかんでも、泣くことができなければなりません。「主人を失ってしまってどんなに寂しかったことか」と言いながら。ここで話をしている文鮮明先生はたくさん泣いたのです。岩をつかんでも泣き、風が吹くのを見て泣いたのです。なぜ、そうでなければならないのか、今、み言を聞いたから理解できるはずです。

 神様が造られた価値のある万物が、神様と共に永遠なる因縁を結んだ貴い万物が、今日、ある王宮で、なに、国宝だとか宝物だとか言って、貴く思われている品物ほどの取り扱いも受けられないやるせなさを私は分かってあげなければなりません。「私だけは分かってあげなければならない」と言いながら生きてきました。「この地上に生きている世界人類がみな分かってくれなくても、私は分かってあげなければならない」という心を皆さん方がもつならば、この民族が将来、世界人類を支配できる新しい民族になるはずです。これは観念でなく事実です。どこの誰が万物をおいて、代々受け継がれてきた自分の家門の宝物より、世の中で一番貴い宝石だというダイヤモンドより、貴く思って手放さないようにしますか。そのような人がどこにいますか。神様は御自身が造られたものを心情的に理解してあげ、それをつかんで涙を流す人を見て「良し」と言われるのです。

 自然とは何でしょうか。神様が私のために、慈しむ愛をもった息子、娘が生まれるとき、慈しむことができる万物として、贈り物として下さった展示品です。鳥の鳴き声一つが、成長していく草一株が、愛する息子、娘たちの生活の美化のために造られた装飾品なのです。路傍にころがっている岩も、息子、娘が国を治める主人になることを知っていて、その国の装飾品として造ったのです。流れる水も同じです。無味乾燥で単調であってはいけないので、造化無双な和合の園として、愛のためのそのような世界を見て、その相続を受けることができる夢の王子、希望の王子を造るために創造されたのです。そのため、万物を通して学ぶのです。雄と雌が「ちゅんちゅん」するとき、これをその主人になるおばさんも学べというのです。互いに慈しむ世界に向かって、自分の一生を命を懸けて生きている本然の被造世界のその美しさを、褒めたたえることができなければなりません。そのようになれば、その家の垣根に鳥も飛んできて暮らそうとするのです。雛を産もうとするのです。何の話か分かりますか。

 博物館にある、何かの作品がどんなに貴重だと言っても、生きている作品にかないますか。神様の作品であるこの地球星の万物博物館を、誰が神様以上に愛したのかというのです。自分の国の博物館以上に愛したのかというのです。道端で踏まれるたんぽぽ一株が博物館にある新羅時代の金環と比べられますか。神様が直接造られたものであるのに。そのような神様の心情をもって「お前を、本然の神様が慈しむことができる王の位置で、愛を受けたその位置で、愛することができない私自身が申し訳ない。恥ずかしい」と言うことができる心をもって慈しむ、そのような王がいるとする場合、その草もその王に従っていき、永遠不変、共にいたがるというのです。そのように生きなければならない人間なのです。

 自然を愛し、人を愛するすべを知らなければなりません。人を愛することができず、自然を愛することができない人は、神様を愛することができないということを知らなければなりません。万物は神様の象徴的な存在であり、人間は実体的存在であるために、万物と人間を愛するすべを知っている人は、神様を愛するようになるのです。

 いつも自然を愛さなければなりません。自然を愛さなければならないのです。また、人間を愛さなければなりません。人間の中でも、五色人種をすべて愛さなければなりません。「ああ、私は白人だけが好きだ」と、神様がそのように言いますか。そうであれば全部白い服のみ着なければなりません。白人たちはみな白い服のみ着なければなりません。色の付いた服はすべて捨てなければならないのです。黒い服をどうして着ますか。色の付いた服をどうして着ますか。矛盾しているのです。

 神様が造られたすべての存在を愛の対象として感じなければなりません。すべて、虫けらまで愛し、人は言うまでもなく、すべての天にあるものまで、無形のもの、有形のものを愛することができ、愛を受けることができる皆さんにならなければなりません。朝、鳥がちゅんちゅんちゅんと鳴くときは、「やい、このすずめ、私が朝寝しようとするのに何でちゅんちゅん鳴くのか」と言わないで、「ああ、お前、有り難い、ああ、私を起こしに来たのだろう、大切なお客様が私に会いに来るのをお前が教えてくれるのか」と、このように考えなければなりません。思想が違うのです。これが偉大なのです。