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第二章 愛の実際 : 九 自然愛 : 1.神様が万物を造られた意義 |
神様は、なぜ万物を造られたのでしょうか。人間に愛する対象を、対象者をもたせるためです。人間に愛する対象圏をつくるためです。人が食べて暮らして、その本然の世界に戻ってきて、永遠なる神様の愛の祖国に入って生きるためです。それを知らなければなりません。
今日、キリスト教の信者たちは、「ああ、神様は全知全能なので、何、言葉一つで、『このような天地になれ』と言ってこのようになった」と考えています。しかし、そのようにはなっていないのです。神様はすべてのものを投入したのです。もっている精力をすべて投入したのです。もっている愛の力をすべて投入して、未来に、御自身の愛する息子、娘、御自身の愛する家庭のための礼物として、贈り物としてつくったのです。すべての物を。ゆえに、そのような観念をもって私たちが万物を眺めなければならないのです。
神様が被造世界を造られるとき、そこには喜びがありました。造っては、それを見て良しとされました。喜びがあったというのです。喜びとは何ですか。ある目的を成し遂げたとき感じるものです。造られた万物に神様の目的意識が内在されていたので、創造された万物を見て、神様は喜びを感じられたのです。それでは、復帰の世界とは、どのような世界なのでしょうか。一言で言えば、森羅万象の個体、個体を見ながらも、神様を褒めたたえることができる心情的な因縁を立体的に備えた人たちが、暮らす世界です。天が御覧になる人格の価値は、そこにあります。それで、昔、聖フランシスのような人が、動物に向かって、あるいは鳥に向かって説教したという話もうそではありません。夢のような話です。けれども夢ではなく事実です。
被造世界のすべてのものは、神様が愛する息子、娘の愛の理想を見つけ出していけるように、教材として造っておかれたものです。それで相対的構造なのです。鉱物も主体と対象の関係として作用し、原子も陽子と電子が主体と対象の関係として作用するのです。作用しなくては存続できないのです。運動しなくては、永続、存続することができません。それゆえ、宇宙は人間を中心として、その中心点に到達できるように創造された世界なのです。
宇宙は神秘的な世界です。いたずらや遊びの材料として造られたのではなく、精誠を込めて、愛する人間のために造られたとすれば、なるほど、この世界はいかに美しいことでしょうか。ですから、私たちがこの宇宙を眺めるとき、天の父が私のために造られたという、この上ない有り難い心をもたなければなりません。そのような心をもって、丘を散策し、草木や花を眺め、鳥を眺め、水が流れるのを見て、風が吹く、このようなすべてのものを見れば、本当に感嘆せざるを得ません。
宇宙の完成は外的な世界も良いのですが、内的な私自身、私も良くなければなりません。良いところにおいては、心もうれしく体もうれしくなければなりません。私の細胞を見れば、細胞の全部がうれしくなければなりません。目の細胞と足の裏にある細胞は違うでしょう。違うのですが、その細胞がすべて喜んで、手の細胞も喜び、すべての細胞が喜び、体と心のどこ一つも残さず喜ぶことができ、それがただ離れているのではなく一つにつながって、連体的な内容を中心として共鳴的な喜びを感じることができる、そのような世界であってこそ宇宙完成になるのです。
因縁というものは極めて小さい所から結ばれるのです。皆さんの個体も百兆ほどにもなる細胞で因縁が結ばれている生命体です。神様の愛を中心とした創造理念世界、すなわち大宇宙のすべての存在物はどんなもの一つとっても、神様の心情の枠外で生じたものがありません。このようなことを感じる詩人は偉大な詩人です。一枚の木の葉が揺れるのを見て天宙的な心情を感じ、それを表現できる詩人がいるとすれば、その人は宇宙的な詩人であるはずです。
私たちの周囲で私たちも知らずに繰り広げられている天下万象が、神様の愛と共に存在するものであるという事実を知りませんでした。神霊的な境地に入ってみると、小さな砂一粒にも宇宙の理致が入っているし、一つの原子にも無窮無尽の宇宙の調和が入っているということが分かります。存在するすべてのものをよく知ることはできませんが、ある複合的な力を通して現れた結果であるということは否定できません。分子を越えて原子、原子を越えて素粒子……。これらのものは無意識的に存在するのではなく、ある意識と目的をもって存在するのです。ゆえに、存在するすべてのものは神様の愛の手を通って出てきたものであり、必ず神様と心情的な関係を結んで存在しているという事実を徹頭徹尾知らなければなりません。
道人とはどのような人ですか。草一株をつかんでも「神様!」と言える心情で、自分の価値と同等にその価値を認識できる人が最高の道人であるはずです。そのようにその価値をうたうことができる人が最高の芸術家であるといえるでしょう。色とりどりに存在する万象を見て、神様の色とりどりの愛と心情の妙味を発見し、それらのものと友達となり、共に楽しめる感情をもった人がいるとすれば、そのような感情で細胞の一つ一つが動く人がいるとすれば、その人は万宇宙を代表することができる人であるはずです。そのような人が万物の霊長です。ところで、食べることしか知らない人が万物の霊長になれますか。
小さい子供たちをよく見るとですね……。子供たちはみんな子犬とか、何かの虫とかいった、飛ぶ動物、野生の動物、このような動くものが好きです。それはどうしてそうなのですか。本来、人間はそのようになっているのです。それはどういうことでしょうか。人間は自然世界やこの地球の動きを見て、趣を感じるようになるのです。もちろん相対基準が異なることがあり得ますが、それを鑑賞することにおいては、人間は本当におもしろさを感じ、興味を感じるのです。それゆえ、自分自体の愛の属性をすべて教わるのです。虫たちが生き、昆虫たちが生き、あるいは動物たちが生きるのを見れば、すべて対になっているのが分かります。このように見る時、自然は何かと言えば、人間一つを愛の対象として、相対理想を教育させるために展開させておいた教材、博物館であるというのです。
神様は宇宙を、被造世界のすべてのものを、愛する息子、娘が愛の理想を探し出すことができるような教材として造っておかれました。それですべてが相対構造になっています。鉱物も主体と対象の関係で作用します。物質の構成単位である原子も、陽子と電子が主体と対象の関係で作用します。作用しなければ存続できません。運動をしなくては永続、存続できません。ですから作用しなくてはなりません。