第二章 愛の実際 : 八 愛国、愛世、人類愛 : 1.孝子、忠臣、聖人、聖子の道に

 神様と一つとなる時は千態万象に回るようになります。そうして兄弟間でも、父母が子供を愛するのを見本として、兄は弟を愛さなければなりません。そのように愛で一元化された家庭には、家庭愛が花咲きます。これがまた社会愛となり、さらには民族愛となります。このように行くと世界愛になります。

 人類の共同的な目的のために生きる人がいれば、その人は人類愛を中心として一つになるでしょう。同じように国民が祖国愛をもっているならば、愛国思想を中心として一つになるでしょう。愛国の心が強ければ強いほど、国家を成すために愛国思想を中心として一つになるはずです。愛国運動は一人ではできないという立場を知ったならば、横的な因縁を連結させなければなりません。これが同志糾合というものです。

 真の愛が定着できる基地が家庭です。ゆえに、本来の家庭は宇宙愛を掌握し、宇宙の保護様相を体得しながら、宇宙愛圏を拡大させ、家庭を越え、国家を愛する愛国の道を行くべきであり、さらに、民族と国家を越え、世界を愛する道に行かなければなりません。家庭を愛する人を孝子あるいは烈女と言い、国を愛する人を愛国者と言うならば、世界を愛する人を何と言いますか。その人はすなわち、聖人であると言うのです。

 愛は、生活と歴史から取り除くことのできない、実在の内容を動かしている実体です。そして、社会制度だとかすべてのものを動かしている内的な力の母体です。ですから教育する時も、国家愛を教えます。兄弟愛、父母愛、夫婦愛、世界的な博愛、全部愛が入っています。これは何を意味するのでしょうか。人類の生活圏だとか歴史過程を経ながら愛をたどらずには、歴史を連結させることはできないということを言っているのです。

 皆さんはどうしなければならないのでしょうか。忠臣にならなければなりません。忠臣とは何でしょうか。国の中心者のために精誠を捧げるのが忠臣でしょうか。違います。国民のためにも、国の中心者のためにするのと同じようにできる人が忠臣であることを知らなければなりません。孝子とは何でしょうか。父母だけのために精誠を尽くす人ではありません。父母のためにするように、兄弟のためにも精誠を尽くす人が孝子だということを知らなければなりません。

 その次に聖人とは何でしょうか。聖人は世界人類のために今まで犠牲になった人です。聖子とは何でしょうか。神様を中心として世界に行こうとし、神様のためにしたように世界の人々のために尽くすことのできる人だというのです。歴史的な聖人は、今まで世界の人のために死んだ人です。神様の息子である聖子とは何でしょうか。神様にも忠誠を尽くすけれども、神様がそうであるように万民のために生きる人です。

 ですから孝子、忠臣、聖人です。では、聖人の次は何でしょうか。聖人であっても、そのまま聖子にはなれないのです。神様の息子にならなければなりません。いくら国の中心者を愛して国民を愛したとしても、聖子になるためには天国の王宮法を知らなければなりません。王宮法に統治され、そこに拍子を合わせることのできる一つの法を知らなければなりません。

 本来、孝子は心が変わらずに父母にまっすぐ行く人であり、忠臣は心が王様にまっすぐに行く人です。同じように、聖人は心が変わらずに神様にまっすぐ行く人です。別の言葉で言えば、死ぬ立場になっても、その心が変わらずまっすぐに行ってこそ孝子であり、忠臣であり、聖人になることができます。

 家庭で父母のために暮らし愛する人は孝子であり、国のために暮らし愛する人は愛国者であり、世界のために暮らし愛する人は聖人です。皆さんは世界と宇宙を愛する聖子にならなければなりません。そうするためには、神様のような愛をもたなければなりません。孝子は家が滅びても生きています。そして孝子の妃がいて、忠臣の妃がいて、聖人の妃がいるのです。聖子は聖人とは違います。したがって孝子の道、忠臣の道、聖人の道をすべて直通できるのが、聖子の道です。それは太くて縁が広いけれども、その核の流れは垂直です。

 人間はどのように生きるのでしょうか。私たちの人生航路の骨子を選び出すと、孝子が行く道、忠臣が行く道、聖人が行く道、聖子が行く道の根本があるはずです。共にいたくて、共に住みたい心、上下にかかわらず共にいたくて、前後、左右、昼夜を超越して、生涯を越えて共に生きたい心に徹した人生ではないでしょうか。このような結論が出てくるというのです。

 人間がどんなに立派だとしても、愛がなければ使いようがありません。また幸福というものも何を中心として連結されるのかというと、それは愛です。兄弟間、友人間、同胞間、人類間、天地間など、このすべてのものの間を連結させることのできる媒介体が、すなわち愛だというのです。愛は麹のようなものです。