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第一章 真の愛というものは : 二 愛は無限に与え、また与えること : |
宇宙を造った神様、法度を立てた神様はどんなお方ですか。宇宙を通じて誰よりも「ため」に生きる代表的な立場に立った方です。その方が神様だというのです。ですからそのお方に会おうとするならば「ため」に生きなければなりません。その方は知識の大王ですが、知識をもってこいと言いません。能力の大王ですが、能力をもってこいと言いません。権力に対する、お金に対する、物質に対する主人であり、大王ですが、それらをもってこいとは言いません。「ため」に生きてくれば、みんな私のそばに来ることができるというのです。
人のために与え、また与えるのは、再創造する上で、神様が創造時に御自身を消耗させた立場と一致します。私を投入するということは、第二の私をつくるためのもので、神様が創造する時、御自身を投入されたのと同じです。再創造の歴史は蕩減復帰路程であり、蕩減は再創造の歴史を通じてするので、御自身を投入するところにおいてのみ再創造が展開されます。ですから、犠牲になるのは不可避だというのが理論的な結論です。
愛は自分を100%投入することです。神様が天地を創造する時、愛ゆえにすべて100%投入したのです。ですから真の愛は「ため」に生きるところから始まるのです。
投入し、投入し、また投入するところから真の愛の論理が始まるのです。「ため」に生きるところは滅びません。小さいところから大きいところに、そして大きいのがその次にはどこに行くのかといえば、中に回るのです。
愛とは、与えて満足するのではなく、与えてももっと与えたいのに、与えられなくて恥ずかしさを感じる、そのようなものが愛です。与えて恥ずかしさを感じる人であればあるほど、本当の愛の主人です。愛は、与えれば与えるほど、もっと大きいものに加えられます。また作用すればするほど、入る力より出ていく力がもっと大きいのです。ですから滅びるのではなく、栄えるのです。愛なくして栄えることはありません。
愛には消耗がありません。動けば動くほど大きくなります。力学の原則は、動けば動くほど消耗しますが、真の愛は、動けば動くほど消耗がなく、大きくなります。
愛の本質は、「ため」に生きようとする時は大きくなりますが、自分のために生きようという時はだんだん小さくなります。
真の愛とは何でしょうか。与えて忘れるものです。与えて、与えて、また与えるのです。
愛の世界は、与えて与えて与えても、無限に続くものです。
愛という言葉は、本当に偉大です。「言葉一言で千両の借金を返す」という言葉があります。言葉一言で蕩減できるという言葉です。億万の借金があったとしても、愛の言葉一言で蕩減しても余ります。
無限大のこの宇宙を中心として牛耳って生きることのできる権限は、真の愛の家しかありません。愛のために生きるところから、それが出てくるようになっています。神様がいくら大主宰で偉大だとしても、愛の前には頭を下げるのです。
愛は、神様も一人で成すことができません。愛は、必ず相対的基盤を通じて成されるのです。愛は、どこから始まるのでしょうか。自分から始まるのではなく、相対から育ち上がっていくものです。
宇宙の根本は人間であり、人間の根本は生命です。生命の根本は愛で、愛の根本は神様です。しかし、愛は一人でいては成立しません。必ず相対的関係を必要とします。神様が愛の根源地ならば、その愛に相対する資格をもっている存在は、人間しかいません。
愛という言葉は、一人についていう言葉ではありません。希望という言葉も、一人についていう言葉ではありません。生命も、一人独断で出てくるものではなく、連結された立場から出てきます。
神様は、人間をどのような存在として造ったのでしょうか。神様の絶対、唯一の価値になることができる愛の相対者として造りました。神様の前で宇宙を与えても替えられない高貴な価値、愛の相対圏を備えて男を造り、女を造りました。人は愛から生まれて愛で大きくなり、愛によって生き、愛で死にます。しかし、ただなくなるのではありません。主体である神様は永遠、不変、唯一ですから、その前に相対的愛の場に立つ時は永生するのです。
神様がアダム・エバを造った目的は、喜ぶためです。見て喜ぶためではなく、話して喜ぶためではなく、触って喜ぶためではなく、愛を中心に喜ぶためです。したがって、喜びを成就するために人間を創造したのです。
神様は絶対的存在ですが、愛の相対になれる存在がいなければなりません。神様の相対者は正に人間なのです。神様の愛の相対者として人間が、完成された愛をもって神様の前に現れる時、神様は幸福な神様、喜びの理想を取り戻した神様になるのです。
神様の夢はただ一つ、愛の理想を実現することでした。しかし愛の理想の実現は、神様が一人で成すことはできません。愛や幸福、喜び等は一つの個体を中心として成されるのではありません。相対圏がなくては絶対に成立できません。
愛はどこから出てくるかといえば、相対から現れます。相対が醜く憎ければ愛も後退しようとし、相対がきれいで良ければ愛の作用もそれだけ早くなります。相対の言葉、美しさ、におい、味等、相対の要素によって愛の作用が決定します。
愛はどこから出てくるのでしょうか。私から出てくるのではなく、相対から出てくるのです。相対から出てくるので、私が頭を下げて、相対の為に生きなければなりません。「ために生きよ」という天理がここから出てくるのです。極めて高貴なものが私を訪ねてきますが、それを受けるには、「ために生きるべきだ」という「ために生きる哲学」を成就しなければなりません。
私が生きて動くこと、私が活動することは無意味なことではなく、ある目的があるからです。その目的とは何でしょうか。愛の世界を具現することです。人間は愛の具現のために、愛を成さなければならないという目的によって存在するのです。人間の生の目的が真の愛の具現にあるので、人間の存在価値もこの真の愛によって決定されます。これがどれほど素晴らしいことでしょうか。
人は自分の愛する相対が自分より何千倍、いや無限大の価値的な存在として現れることを願います。このように神様も、御自身が愛する相対である人間が無限の価値的な存在になることを願われます。人間が完成すれば神性を成して、天の父が完全であられるように完全で神的な価値を成すのです。
真の愛とは何でしょうか。相対に出会って、百年、千年共にいたいし、永遠に愛したがる愛です。そこには地獄があり得ず、サタンが付け込むこともできません。
神様が絶対的な愛のパートナーを求めるとすれば、誰を選んで立てるでしょうか。正に人間です。したがって創造主の永遠な愛と一つになった愛のパートナーは、永生する理論が出てくるのです。愛の関係を中心として永生理論をどのように立てるかという問題は、宗教において極めて重要な話です。男性に永生があって、女性に永生があるのではありません。神様に永生があるのではありません。神様の愛に永生があるということを、はっきりと知らなければなりません。
愛の主体がいなければ、誰もいないように感じます。しかし愛の主体がいれば、すべてのものが満たされます。愛が満たされてこそすべてのものが満たされるので、無限に与えることができ、真実に与えることができるという結論が出てきます。与え受けるのが理想の実現であり、理想の繁殖です。愛の世界は距離を超越します。愛がどれほど早いのかと言えば、光もついていけません。一番早いのです。一番明るいのも愛です。一番完全なものも愛です。一番完全に満たされるのも愛です。
生命を求めて愛を犠牲にする人と、愛を求めて生命を犠牲にする人のうち、どちらがより中心でしょうか。どちらがより真に近いのでしょうか。愛を求めて生命を犠牲にするのがより中心であり、真に近いのです。生命を求めて愛を犠牲にするのは自分中心ですが、愛を求めて生命を犠牲にするのは、自分中心ではないからです。
私が五大洋六大州をさまよいながら切実に叫んだのは、正に愛の道でした。愛のない砂漠のような人類の前に、愛の光を照らしてあげようとしたのです。人間が究極的に行くべき道が愛の彼岸だとすると、人類の前に何よりも重要なものは「愛の灯台」でないはずがありません。正にその愛の灯台のみが、人間を本郷の地に導くことができるのです。
神様と一つとなる時は、千態万象に回ります。ですから、兄弟間でも父母が子女を愛するのを見習って、兄は弟を愛さなければなりません。そのような愛で一元化された家庭には、家庭愛が花咲きます。これがまた社会愛になり、さらに民族愛になります。このように進めば世界愛になります。
神様は、愛に酔って億千万代を生きられるように人間を造られました。それで、人が老いることは怨讐ではありません。人は愛から始まって、愛をもって生活し、愛の実として収められます。死ぬことが愛の実を収めることです。私たちが父母の愛を受け、子女の愛を受け、夫婦の愛をもって父母として子女を愛し生きたので、神様の愛、内的な愛の世界に蒔いたすべてのものを、生涯を経て実を結び、これを収めてからあの世に行くのです。